【図解】5分で分かる。今さら聞けない「貨幣の歴史」
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以前自分の頭の中を整理した時のメモ。
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●「お金」の歴史的変遷
・お金の歴史を整理:物々交換→石・貝→お米→貨幣(物自体の価値がある)→法定通貨(物自体に価値はない)→クレジットカード→電子マネー
・金貨までは「お金」自体に価値が存在したが、法治国家になって物自体に価値は存在しなくとも「お金」として認識されるようになった、あくまで現代における「お金」は法治国家を前提とする
・市民革命などにより、身分の影響力が薄れる一方で、「お金」が非常に重要になっていき、身分から「お金」へパワーシフトが起きた
・また、価値を運ぶツールだった「お金」は産業革命などを通して、証券など実体経済の消費とは隔離した場所で用いられ、目的と化し、価値の一人歩きを始めた
・その後、信用創造という概念が誕生し、「お金」以上の「お金」を生み出すことが可能になった
・その後、「お金」と物/サービスとの引き換え行為である、決済をよりなめらかにするために、キャッシュレスという概念が誕生、クレジットカードや電子マネーの台頭
→つまり、「お金」というものは歴史とともにその在り方が変わってきており、現代におけるお金というものは、信用を数値化したものである(堀江氏)
注目のコメント
貨幣とは、信用の表現の一種です。あくまで表現なので、どんなものでもかまいません。ある社会では、家の前に大きな円い石を置いておくことが、「この人は信用のある人だ」という表現になります。その物品自体に有用性がある必要はありません。
個人と個人の間では、婚約指輪や木綿のハンカチーフを贈ったり、幸せの黄色いハンカチを木に縛っておくことが信用の表現になります。個人と個人でそう取り決めたからです。
部族と部族、大名家と大名家の間では、娘を嫁入りさせたり、息子を人質として預けることが信用の表現になります。これも、そういう取り決めがあるからです。
貨幣の特徴は、単に信用を表現する物体であるというだけではなく、指輪や人質以上に広域で交換を実現し、交換する関係を拡大することです。貨幣という信用の表現が出回ることによって、どんどん多くの人が交換に巻き込まれていくようになります。
ラテン語やアラビア語、漢語、フランス語、英語といった言語が世界中で学習されることで、多くの人々がコミュニケーションを共にするようになりましたが、言語はコミュニケーションの道具に過ぎません。人々を広域のコミュニケーションに駆り立てたのは信用の追求であり、それは宗教でもありましたが、同時に貨幣でもありました。
問題は、どうやって信用を創造し、連鎖させていくかということです。古代中国やローマのような王朝は、信用の体現そのものであり、王朝の鋳造する貨幣もその一部でした。その後も国家による法定通貨が現在まで主流で、紙幣にするか、カードにするか、電子マネーにするか、といった表現形態の問題は本質的な違いではありません。ただ、芝麻信用のような、個人の信用を通貨と互換可能にしたり、様々なポイントカード、オンラインゲーム上の取引、暗号通貨を含む仮想通貨など、信用の新しい連鎖のさせ方を模索する動きは見られます。デザインを担当しました。硬貨と紙幣の歴史をインフォグラフィックでざっくりおさらい。
キャッシュレス化の波によって、おそらく数年後には、ほとんど使うことがなくなるかもしれない現金。しかし、3000年間使い続けてきた物理的なお金が、消えてしまうのは、けっこう大きな出来事だといえるかもしれません。
それにしても、てっきり漫画の中の話だと思っていたギャートルズの石貨が、リアルに存在していたとは…驚きです(笑)貨幣の起源というのは最近では少し説が変わって来ていて、従来の物々交換の代替品だったという説から、今ではツケを記録する帳簿のようなものから始まったと考えられています。
つまり本来大した価値のない貝殻や石が、貨幣の役割を果たしたのは、其れ自体に価値があったのではなく、貸し借りの証明書としての価値だったというわけですね。
それが、どうせ証明するなら、貨幣自体にも価値があったほうがいい、ということで相応の価値のある貴金属が用いられるようになったのは、逆に後世のことだということなのです。
従って紙が発明されると、より記録しやすい紙が通貨がわりになるというのも又当然のことで、この図では唐突に北宋の交子が出現していますが、唐代には既に飛銭という手形の様なものが流通しており、これが宋、元の時代に広く貨幣として使われるようになったのが交子だと考えられています。
尚、紙の発明はこれよりずっと古く漢代です。
モノが発見されていないので確定ではないのですが、上記の様な経緯や、様々な文献から、漢代には既に紙幣の原型が流通していた可能性があるとも言われています。
そう考えると、貨幣の歴史は、通貨とは何かという本質を辿る旅だと言えそうですね。