【ハーバードの東洋哲学】わたしたちは本当に自由を手に入れたのか
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アメリカが中国を理解しようとすると、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」からポストモダン思想の限界を持ち出してしまいますね。つまり我々の思想は袋小路に陥っているとの自覚の体裁を取りながらも、ヨーロッパ思想の系譜に接続してしまう彼等の認知バイアスを感じます。
タオをPathと訳している点もミスリードで、タオはFieldの方が東洋人にとっても量子力学的にもしっくりくるのでは。
アメリカ人が理解しやすい中国人のタオイストとしては揚子江を泳いで渡る政治パフォーマンスを行った毛沢東なのかもしれないが、ウォーホールによるシルクスクリーン上のピンクのイコンを超える表現と理解は無さそう。
禅をマインドフルネスと表現しているのも1つのミスリードで、フルネスではなく強いて言えばマインドゼロじゃないかなぁ。インドが入ってしまいますが。
欧米人が東洋思想を理解する限界を改めて感じさせられました。
追記
逆に日本人が一神教を学問的にではなく、自らの体験として取り込んで表現した一例として遠藤周作の「イエスの生涯」等があるが、異なるものに対する感じ方として米国人が認識する「道」も興味深い。と、優等生的に言ってみますが、Pathという誤認は認識レベルが低いと言わざるを得ない。東洋哲学のベストレクチャーは、"a liberal art school on the other side of Mass Ave" ではなく、東洋にある大学の教授に発信していただきたいですねぇ ニホンならどなたが?
資本主義は確実に終わると思っている。
というか合理的、という発想が結局合理的でなく、求めている「結果」というものに結びつかないという矛盾にいつか辿り着くはずである。
ありのままを受け入れるな、と書いてあるが、僕はそうとは思わない。
自分のありのままとは、案外簡単には断定できない。
西洋の考えは終わりを迎え、東洋の考えの奥深さが見直される時はすぐそこに来ている。
そして、いずれ東洋の考えも一部分だと、また百年経てば見直される。
人間とは何か。
遺伝的アルゴリズムだとか、習慣や祭りなど観念的なものはいくら研究されても、人間の本質はわからない。
そこに答えもないかもしれない。
歴史は動いて、時代も変わり、それぞれの時代の人達は一喜一憂して死んでいくが、人間の苦しみと幸せは何も変わらない。
人間にとっての真理は、やはり人間の内にしかないと思う。
その真理はもう目の前にあるのか。
それともまだまだ先にあるのだろうか。