結局、『不老不死』は実現できるのか?
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ベルクソンをはじめとした、生の哲学的観点より一言。ある種の連続性はまあわかる。生まれてからずっと、体験は積み重なり、記憶の貯蔵庫に蓄積していく。生は絶え間ない経験の連続。持続というベルクソンの概念が示す通り。ところが、再現性は微妙。身体をもっていたとしても、その瞬間の夜風の感覚、幸福感、あるいは侘しさなど、再現不可能な一回きりの出来事とも捉えられる。すると、再現性は、この文脈ではあまりうまくハマらない表現に思える。
注目のコメント
人は皆泣いて生まれてくる。しかし、周りは皆笑顔だ。
人は死ぬとき周りは泣いている。しかし、本人が笑って死ねるならいい。
終わりがあるから生きることが輝く。
笑って終われるように生きればいい。
不死なんてくそくらえ。不老不死を考えるときに、「不死とは何か」というところに立ち戻るの、いいですね。
高橋さんの不死の定義はこう。
『私の考えでは、「不死」とは、連続性と再現性がある状態で生き続けることだと考えています』
この整理は面白いです。
何が面白いって、高橋さんの中での「生」の定義はこうではないだろうと推察されるからです。
例えば、仮に脳みそだけがプカプカ浮いて思考できて、さらにアクチュエータと繋がって運動を生み出せる状態は、「死」ではないような気がします。 でも、高橋さんの不老の定義には外れる。
つまり、「不死」を考えるときには、「生」単体では考えなかった前提を考慮している。はず。たぶん。勝手な想像ですけど。
そして、その前提は、「不老不死の目的はwell-beingの向上である」というところでしょうか。
脳みそプカプカして、概念だけ残った未来、楽しい?そうじゃない生き方したいよね、という想いを感じて、面白いなあと思いました。