元生徒会長と校長が教える、時代遅れのルールとの向き合い方
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注目のコメント
この動画で地毛証明証の提出を義務付けられている学校があることを初めて知りました。僕の出身高校は、当時は私服で頭髪も自由だったので衝撃でした。また、「髪染めちゃダメなのに、黒染めはいいんですか?」的な生徒さんからのコメントがあって、え?コント?と一瞬目を疑いました。こんな日本に誰がしたんだと。
こういう目的のない形式的なルールは思考停止以外の何者でもありません。こういう類のモノが世間に蔓延していればいるほど、それが悪しき慣習となり、正しいイノベーションを阻害する温床になると思います。
そもそも学校ってなんなんでしょうか?
学校の本来の目的を「これからの未来を作る若者を育む場」とするのであれば、それに必要なルールはあれば良いし、不要なモノはなければ良いと思います。シンプルです。頭髪規制は何に対して必要なのか、校則の項目一つ一つが何を実現するための手段なのか、今一度教育現場で考えるキッカケになればなぁと期待しています。
最後に、本題ではないですが、大事なことなのでお伝えします。わたし、そもそも生徒会長ではないですから 笑!
小学生→児童、中学高校生→生徒、というのが一般的な定義かと思います。小学校時代に児童会長はやりました。生徒会という観点では、中学時代に生徒会議長と生徒会部長長という謎な建前の役職はあったと記憶してます。
編集部の方からタイトルはどうしても元生徒会長と書きたいとということでしたので、注釈を入れていただくことをお約束したのですが、まぁコメントで書けばいいかと思ったのでここでハッキリと記載しておきます。詐称じゃないよ!笑スポンサーのブランドメッセージに即して「ブラック校則を変える」というお題でお二方がお話しになっていますが、少し違う角度から。
私が学生の立場であれば、そんな学校は見限ってさっさと飛び出すと思います。
馬鹿馬鹿しい校則を変えることに若い貴重な時間とエネルギーを費やすほどの価値が果たしてあるのか、もしも当事者であれば落ち着いて考えてみるべきなんじゃないでしょうか。会社も然り。
山野さん同様、私も小学生の時は児童会長でしたが、中学に進学して以降、生徒を子供扱いして抑圧的に管理しようとする学校や教師の姿勢にほとほと嫌気がさし、学校に行くのをやめましたし、卒業後は日本も飛び出してしまいました。今までの人生で最良の選択だったと思います。
大人になった今振り返っても、当時の教師たちは残念な人たちだったと思います。わざわざそんな人たちに向き合う必要もないんじゃないでしょうか。
学校であれ会社であれ、一度属した組織に残り続けなければならないという固定観念に囚われているせいで、多くの人が息苦しく過ごしているように感じます。
実際には外に飛び出してもいくらでもオルタナティブはあります。くだらない学校を飛び出すことは決して非現実的な選択ではありません。
機能不全の組織に所属していると、なんとかしなければと思うのは自然な感情ですし、勇ましいことです。ただ、そこから一度飛び出してしまうと、往々にして変えるほどの価値もない組織だったということに気づくものです。
既存の非合理な組織を変えるのか、見限って飛び出すのか、それとも折り合いをつけてやり過ごすのか。
どれを選ぶかは個人の好みです。フラットに選べばいいんじゃないでしょうか。日本社会のかつての強さであり、そして現在の弱さの最たるものは学校なり会社なりといった集団の均質性を保つことに払う、並々ならぬ努力です。
これは髪型だけでなく、服装、言葉遣い、サラリーマンならスーツ・ネクタイから始まって靴の形、色に至るまでいちいち同一であることが望まれます。
その理由はただ一つ「周りへの影響を考えて」です。
正直私の働く丸の内界隈では、かつてはスーツネクタイ以外の人種は、極端な話よそ者か、出世街道から外れた人以外いませんでした。
(だから私のアイコンだって丸の内のお約束に従いちゃんとスーツにネクタイです)
ダイバーシティなんてお題目というか、社員全員に均質性を要求した上で、経営者の全員がダイバーシティと言う名の均質的なスローガンを吐くと言う皮肉こそ、現代でも一流と言われる企業界隈でよく見られることだったりします。
私が若い頃はそこまでではなかったし、それ以前は諸先輩の話を聞くに、もっと破天荒な人物が堂々と活躍しいた時代もあったようなので、この事態はここ20年くらいの教育の作り出した産物という側面が大きいと私は思っています。
遠回りなようでも、日本を変えるにはこうした理不尽がまかり通る教育を変えていくことが、結果的には近道のように思うのです。