「人間とはいったい何なのか」カイフ・リーが語るAIと共生する青写真
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医学というものは、突き詰めるとまさに「人間とはいったい何なのか」を考察する学問です。AIと医師はどのように共生すべきか、より「人間化した」AIをどのように作るかということは、我々の世界でもよく議論されていることです。
AIになく人間にあるものとよく称される「創造力」は医療現場、患者さんのケアに必要とされる力では必ずしもありません。それでは、人間の医師の存在意義とは。
歴史上最も有名な医師の1人であるDr. Oslerはこのような言葉を残しています。「どんな病気を持った患者かよりどんな患者が病気を持っているかを知ることの方が重要だ。」
人をみず病気をみていると、医療は正しい方向性を失っていきます。我々医師は、患者さんを見極めること、共感、愛情、寄り添うこと、害を避けること、そんな測量できない力を科学的な知識とともに発揮する仕事なのです。
しかし、現在のAIの開発とその興味はOslerのそれとは逆行します。診断、治療の選択に迫りますが、それを持っている個人、人間性を置き去りにします。
このように書くと、AI開発の逆行は、悲観的なことのように感じられます。しかし、AIが現在の方向を極めるとき、医師はより人間らしく人間らしいところに焦点を当てて仕事ができるのでは、とも考えられます。そして、これが1つの医師とAIの共生のカタチなのかもしれない、と思っています。>これまで、文明は技術革新の影響をうまく吸収してきた。19世紀と20世紀には、無数の農夫を工場労働者に変えた。
先進国にとっては、その時代は90年代ごろまで。
人類のイノベーションのピークは19世紀末で、技術革新で雇用が増やし格差を是正できたのは自動車・機械産業を生んだ産業革命くらい。ITイノベーションでも雇用は増えたという人がいるが、むしろ中間層の没落という自然現象に拍車をかけただけだと思う。
>ブロニー・ウェア著『死ぬ瞬間の5つの後悔』
私が死を意識して生きようと思ったのは、中学2年の頃、H.D. ソローの「ウォールデン 森の生活」の有名な一節、
"I went to the woods because I wished to live deliberately, to front only the essential facts of life, and see if I could not learn what it had to teach, and not, when I came to die, discover that I had not lived. I did not wish to live what was not life, living is so dear; nor did I wish to practice resignation, unless it was quite necessary. "
を読んだときだった。それ以来、自分の人生ではないものは拒み続けてきた成れの果てが今の自分。
>「AIに対する人間の優位は、創造性と思いやりにある」
確かにある種の「創造性」はAIにはできない部分があるが、AIは人間の模倣を学習するので、普段我々が「創造性」と呼んでいる行為の殆どは将来的には模倣の対象になると思う。
誰かに共感し同情するというのは確かに人間の最後の砦なのだが、私の考えではこれは逆で、「思いやりを持つ」ことではなくて、「苦しみに同情される対象である」ことこそが人間の本質であって、それこそが「人間とはいったい何なのか」の答えなのだろうと思う。
その意味において、私が言うところの「真の創造性」とは、代わりが効かない存在としての自分に対する他者からの思いやりに基礎を為す創造性という意味になる。AIの台頭によって、人間らしさがより浮き彫りになる。
といった内容。
個人的には「人間らしさが浮き彫りになる」というより「人間特有の順応性が発揮される」と言った方が良い気もしますが、筆者自身の経験も踏まえ語られており、不思議な説得力を感じる文章です。
一方で「人間とはいったい何なのか」という疑問に対する答えは明示されていませんが、私の頭にすぐ浮かんできたのは、ヘミングウェイの『老人と海』に出てくる漁師の言葉。
人間は負けるように造られてはいない。殺されるかもしれないが、負けはしないんだ。
図らずも、この記事の内容も「人間がAIに負ける」と言った内容ではありません。
私たち人間は決して負けはしないんだ。
そう考えながら、希望を捨てずに生きていきたいです。