【海部美知】シリコンバレーはどのように誕生したのか

2019/2/20
世界をリードする企業が本拠地とするシリコンバレー。グーグル、アップルなどの巨大企業だけでなく、さまざまなベンチャーが集結し、新しい価値が日々創造されてる場所だ。このシリコンバレーはどのようにして誕生したのか? その歴史をひもときつつ、人間の儲け方ともいえる「文明のビジネスモデル」をシリコンバレー在住のコンサルタントである海部美知氏が3回に分けて解説する。時代によって違う富の生み出し方をシリコンバレーを例に考えるシリーズ連載。第1回は、シリコンバレー誕生からアップル創業前夜までの歴史を振り返る。
海部 私は、ホンダを経て、スタンフォード・ビジネススクールに留学。その後、NTTニューヨーク支社や通信ベンチャーでビジネス開発に従事し、1990年代のインターネット勃興期を生で経験してきました。インターネットやモバイルが急速に進化する中で、その最先端であるシリコンバレーを見てみたいと、99年にシリコンバレーへ移住。技術とビジネスの変遷をリアルタイムの現場で目撃してきて、今年はちょうど20年目の節目となります。
現在、「シリコンバレーの儲け方」をテーマにした本を執筆中ですが、その一部を紹介しつつ、シリコンバレーの歴史とその儲け方についてお話しします。

果樹園の農村を変えたHPの創業

シリコンバレーの生態系には多くのプレーヤーが関わっているが、特に主要な柱となるのが、「アイデアやスキルを持つ起業家」「リスクの高いベンチャーに投資する投資家」「ベンチャーのプロダクトを使い、ベンチャーを買収し、ベンチャーに人材を供給する地元大企業」の3つである。この鉄のトライアングルが確立して現在の姿になったのは、歴史的には比較的最近のことで、地元の大企業やベンチャーキャピタル(VC)が出そろった1970年代のことだ。
さらにさかのぼって、一般的に「シリコンバレーの発祥」とされる歴史的イベントは、1930年代のHP(ヒューレット・パッカード)創業である。
1920年代のシリコンバレー地域は、果樹園が広がる農村であり、学生は卒業しても就職先がなく、東部に去るのが普通だったのだ。それを嘆き、学生に地元で「創業」するよう推奨するスタンフォード大学の教授がいた。彼の名はフレデリック・ターマン。
ターマンの教え子であったウィリアム・ヒューレットとデイヴィッド・パッカードは、教授の勧めに応じて、1932年に自宅ガレージで会社を創業した。
ヒューレット・パッカード創業の地として現在も残るガレージ(写真:David_Ahn / getty images)
1938年にヒューレットは音の周波数を計測する新しい方式を開発する。2人は従来品よりも画期的に安定して低コストなオーディオ発振器をつくることに成功した。この製品に目をつけたのが、ウォルト・ディズニーだ。1940年にリリースされた劇場用アニメ映画「ファンタジア」の製作に使われ、彼らの初の「正式な製品」となる。
1939年には正式に会社を創業、コイン・トスでどちらの名前を先にするかを決めて「ヒューレット・パッカード(HP)」という社名が決定した。

フレデリック・ターマンの金儲け

HPを設立するきっかけを作ったフレデリック・ターマンは、スタンフォード大学電気工学の教授だった。
第2次世界大戦が始まると、米国政府は、ドイツ軍のレーダーシステムを解析し撹乱する仕組みをつくるため、ハーバード大に秘密の無線研究所、Harvard Radio Research Lab(RRL)を設立。そのトップとして招かれたのがターマン教授だった。
この重要な軍事目的の研究予算が、MITやハーバードには1億ドルや3000万ドルも拠出される一方で、スタンフォードにはなんと5万ドルぽっきり。このころ、いかにスタンフォードの存在が小さかったかがよくわかる。
「なにくそっ、いつの日か、スタンフォードをMITやハーバードと肩を並べる大学にしてやるぞ!」と、ターマン教授が夜空を見上げて、拳を固めて涙ぐんでいる図が思わず目に浮かぶ。
1885年に創立されたスタンフォード大学(写真:alacatr/ getty images)
その志を胸に、戦後スタンフォードに戻ったターマン教授。次の戦争に向けた軍事研究に備え、さらにスタンフォードを工学部門で全米トップクラスの大学にするため、20年計画で大学改革に着手する。
当時は、今のスタンフォードのように金持ちの卒業生から寄付金が集まるような状況ではなく、資金集めに苦労していた。そこでターマンは、スタンフォードの広大な敷地の一部に貸しオフィスを建設し、そこから賃料収入を得ることを計画した。これが、1953年にできたスタンフォード・インダストリアル・パーク(現在はスタンフォード・リサーチ・パーク)で、世界最初のテクノロジー企業向けオフィス・パークとなる。
1950年代には朝鮮戦争、続く冷戦時代を経て、スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の研究パートナーとなり、軍の予算も飛躍的に増加。これが、後の「インターネット」につながっていくのだ。
インダストリアル・パークには、ヴァリアン、HP、イーストマン・コダック、GE、ロッキードなどが入居。スタンフォードのあるパロアルト周辺は、果樹園の町から急速にテクノロジー企業の町へと変貌していった。
スタンフォード大学は、全米大学ランキングを駆け上がり、卒業生が創設した企業が成長。ターマンはHP創業、インダストリアル・パークの成功、スタンフォード大学を育てた功績などにより、「シリコンバレーの父」として尊敬されている。

「半導体」がやってきた

実は、もうひとり「シリコンバレーの父」と呼ばれる人がいる。ウィリアム・ショックレーだ。トランジスタの開発者であり、シリコンバレーの名のもとになった「シリコン/半導体」産業をこの地にもたらした人物だ。
ショックレーは地元出身の科学者で、第2次世界大戦中は軍に協力、戦後は東部でアメリカ最大の電話会社AT&Tの研究開発部門、ベル研究所(ベル研)に勤務。そこで他の研究者とともに、真空管に代わる個体(半導体)を見つける研究を行い、その成功で、のちにノーベル物理学賞を受賞する。
ショックレーはこの種の天才にありがちな、かなり性格的に難がある人物だった。ベル研の共同研究者との間でいざこざが絶えず、社内でも人望がなかったため、結局ベル研を辞めて故郷に舞い戻った。そして、大学時代の友人の支援を得て、スタンフォード大に隣接するマウンテンビュー市に「ショックレー半導体研究所」を設立、自力で半導体の開発・製造に乗り出した。1955年のことだ。
しかし、自分の会社でも、ショックレーはまた嫌われてしまった。会社設立からわずか2年後の1957年、部下のうち8人が集団脱藩して、「フェアチャイルド・セミコンダクター」を設立。そのフェアチャイルドも、親会社とのあつれきで社員が次々と辞めていき、創業メンバーのロバート・ノイスとゴードン・ムーアの2人が1968年にインテル社を創業する。ほかのフェアチャイルドを辞めた社員たちの多くも半導体企業を創設していった。それが1950〜60年代のシリコンバレー「半導体の時代」につながっていく。
後年「産業のコメ」とも称される半導体だが、初期の頃は軍事用に使われることが多く、その後コンピューター技術の発展とともに民生用にも使われるようになる。
シリコンバレーは半導体の聖地として変貌していく(写真:ermingut/ getty images)
そして、いよいよ、1976年にアップルが創業されて「コンピューターの時代」を迎え、現代につながるシリコンバレーの姿ができあがるのだ。
次回は、VC(ベンチャーキャピタル)の登場で、シリコンバレーの儲け方がどう変わったかについて、紹介する。 
【海部美知】シリコンバレーのマネーを変えたVC登場
海部美知(かいふ・みち) 米国と日本の新技術に関する戦略提案・投資や提携あっせん・調査などを手がけるコンサルタント。シリコンバレー在住。一橋大学社会学部卒、スタンフォード大学MBA。ホンダを経て1989年NTT入社。米国の現地法人で事業開発を担当。96年米ベンチャー企業のネクストウエーブで携帯電話事業に携わる。98年にコンサルティング業務を開始し現在に至る。北カリフォルニア・ジャパンソサエティ理事。著書に『ビッグデータの覇者たち』(講談社現代新書)など。
(編集:久川桃子 デザイン:田中貴美恵・大橋智子)