【独占】なぜ隈研吾の建築物は、誰からも「愛される」のか
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私の父はそこそこ有名な建築家でした。
その影響もあり、私も建築・都市計画を学びました。
隈さんがまだ大御所と呼ばれる前に、私がコロンビア大学建築大学院に在学中、お会いしたこともあります(隈さんはコロンビア大学で客員研究員をされていました)。
そのときからの印象で恐縮ですが、隈さんはあらゆる建築家の中でも「調整」というか「人たらし」という点で圧倒的な才覚と、それ以上の努力をされて、今の立場を築かれたのではないかと思っています。
隈さんの過去の建築を並べてみて、初見の人間が見てみると、同じ建築家がデザインしたものとは思えないほど、それぞれに個性を持ったものに映るでしょう。それを私は若い頃は、隈さんには作家性がない、などと、偉そうに評論していたものですが、そもそも建築なんてものはアート作品ではないわけだから当然と言えば当然なわけです。
もし建築に、アート(自ら発する社会への問題提起)とデザイン(人間中心設計による問題解決)とビジネス(あらゆるステークホルダーとの調整)の三軸があるとしたら、ビジネスの軸が際立ってるのが隈さんなんだと思います。一方で、この三軸をバランスよく配しているのが安藤忠雄氏なのかもしれません。
純粋な建築単体としてのインパクトや独創性や社会提案性については(それを私はかつて「作家性」と呼んでました)、隈さんや安藤さんを上回る建築家はこれまで多くいたと思います。しかし、多かれ少なかれ、大御所となれる人材は、この三軸のバランス、特に「ビジネス」の面に長け、そこに注力する努力ができた人ではないか、と思うのです。今回の特集にあたって、どうしても取材をしてみたかったのが一流の建築家でした。いつも生活と密接に関わっている建築ですが、その一方で、突き詰めて考える機会はほとんどありません。
何もないところからどう建物の形を決めて、現実に落とし込んでいくのか。とても単純な疑問ですが、どうしても投げかけてみたい質問でした。
建築界の大御所ということで、取材前は緊張していましたが、とても丁寧で時間に正確。建築家のイメージがガラッと変わる、発見の多いインタビューでした。建築家は、あらゆる職能の中でも、もっとも大きな社会的責任を背負うプロフェッショナルのひとつと言えると思います。扱う金額や社会的な影響力も大きく、新国立競技場のコンペでも露呈したように、ある種の建築は時代や社会や地域をつくるし、それに対しての批評や要望も多方面から寄せられやすい。
つまるところ建築は総合芸術であり、ステークホルダーが非常に多い。必然、隈さんが言及するようにある種の「調整力」が必要になってきますし、真にすぐれたデザイナーとしての建築家は、これらを総合的に勘案しつつも、最終的には自らの設計に対する説明責任能力が高い。(安藤忠雄さんはみずから設計に携わった建築物について、決して「作品」と言わないし事務所内の人間にも「作品」と言わせないそうです)
大学で建築を専攻し設計に日夜没頭していた頃、仲間たちと「デザイナーとしての建築家に必要なこと」について話し合ったのを思い出します。卒業設計で日本一に輝いた飛び抜けて優秀な同期の親友が、『「よりどころ」かな』と言っていたのですが、まさにこの隈さんの記事やその中での村野藤吾さんの99%/1%の話ともつながる。
制約条件も何もない完全なる自由な設計なんて存在しないし、逆にとっかかりやよりどころのない設計はつまらない。安藤さんの言葉を借りるとするのならば、「創造は逆境からこそ生まれる」ということなのでしょうね。