初入閣の柴山文科相、教育勅語“普遍性持つ部分ある”
コメント
選択しているユーザー
たとえ普遍性があったとしても、教育基本法でカバーすればいいだけの話です。教育勅語という言葉を使ってしまうこと自体に政治的なセンスの無さを感じます。愚かとしか言いようがない。。。
注目のコメント
日本会議の主張と同じ。
時代背景や政治的・社会的機能を無視して、教育勅語に「普遍性」を見出すのは、「孫子を経営に活かそう」といった程度のこと。論語のような歴史的思想性のない、むしろ、歴史的文学作品か人生訓的標語集に留めておくべきだ。強制力・執行力のある法規と人生訓とは全く意味が違う。
普遍性をいうなら、基本的人権や立憲主義、公平・平等・衡平といった理念の方が、はるかに時代や国を超えた普遍性がある。
政治家が評論家・作家のような感覚的なことを言い出すのはあぶない。国会で否定されたものを一部でも復権させようとするのは、その政治センスが化石時代にあるのだろう。
一部でも標語を復権させると、その下にある危険な有象無象も復活してくる。必死に擁護したい気持ちはよく分かったが、『アレンジをすれば』何にだって普遍性は出るので、この発言自体意味がない。自分の発言の論理性を評価するくらいのこともできない文科大臣なのだろうか、となってしまうと思うが。
一応追記しておくと、教育勅語のポイントは「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」であり、危急(戦争を含む)の際には儒教的な孝悌・親や家族が大事ということの上位に、天皇と国家のためにその身(生命を含む)を捧げることがくる、様々な道徳的体系の上に国家主義を位置付けた点が重要。ここをアレンジで切っちゃうなら教育勅語でなくて良い。江戸時代からの長い伝統がある儒学思想、修身斉家治国平天下の価値体系でOKだ。
つねに戦争を前提とした軍事国家であれば、天皇を中心とした国家の護持を優先することで最終的には家族を含めた国民の保護に繋がるのだ、とする教育勅語のスタンスには、一定のリアルさや説得力があったとも言えるのだろう。しかし、いま現在の平和国家体制のなかで、教育勅語のもっている価値体系は明確に「不要」であり、それゆえに戦後の教育からは廃されたものであることは忘れてはならない。
先行する倫理のいいとこを部分的につまんであるからといって「教育勅語には良い面もある」等と放言するのは、勅語の起草者たちが国家の危機的状況下にあって苦心した価値体系化への工夫をもコケにする、二重に愚かな振る舞いだといえるのでは。これが保守?イチゴ味に居直るのもいい加減にしてほしい。
〔追記〕
うーむ…なおも「教育勅語には良いことも書いてある」と文科大臣発言をヒモ付けて肯定したい向きには、以下などご参照されることをおすすめします。
@yash_sanさんのツイート: https://twitter.com/yash_san/status/1047462479133954048?s=09
個人の人生において影響を受けたことを否定するものではありません。しかしながら国政を司る立場の人が肯定するのは明確に否定されるべきと考えます。家族が生命の危機にさらされるような事態にあたって、家族の安全よりも「国体の護持」や「皇運の扶翼」を優先すべきだとする世界観の中に私達は生きていません。しかし、教育勅語の教育勅語たる所以はそうした世界観の構築にあるわけです。記者が「教育勅語」という単語を用いて質問したのか、大臣が自らその単語を使って説明したのか分かりませんが、いずれにしても丁寧な説明が必要なものだと理解してます。