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こんなにもたくさん死刑が執行されて、一人の法律家として思うこと

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  • 株式会社One Life Japan 代表取締役

    法哲学


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    弁護士(スマートニュース株式会社/法律事務所ZeLo/NPO法人Mielka)

    大場さん、ピックしてくださり、ありがとうございます。

    私なりに死刑について考えた思考の現在地を雑多にまとめたにすぎない記事に、このように沢山の意見を拝見することができて、久しぶりに思想の自由市場のありがたさを感じました。

    岩田さんに興味深いとおっしゃっていただいた点、実は私もまだうまく言語化できていません。
    「コミュニティ内の幸福」を考えた際に、「死刑」というのは一定の意義を持つものではないかという肯定的な思想を持ち始めたものの、やはり「私刑」を廃止し、コミュニティが理性的な「司法」に刑罰権を委ねたのであれば、その理性的な判断に死刑の選択肢を与えることを法律家としては否定しなければならないのではないかと揺れ動いている状況です。
    まだ後者の方にぶれている理由は、法律家としての1mmのプライドなのかもしれません。それがある限り、「少しの希望」をまだ捨てたくはないというのが、これまたちっぽけなエゴなのだと思います。


  • エネルギーアナリスト/ポスト石油戦略研究所代表

    とんふぃさんが死刑の論点についてまとめて下さっていたのでピック。

    私の考えは、巷の議論と刑事罰論は"極力"分けて考えるべきで、だからこそ死刑に賛成(というかある事に特に違和感はない)です。

    よく、犯罪抑止とか被害者感情などと言いますが、近代刑法は罪刑法定主義を建前としており(日本でも憲法31条、39条がそれに該当すると解釈されている)、それに照らせば本来それらの目的を考慮することは運用上のレベルではあるとしても基本的ナンセンスかなと思います。抑止効果や感情に即して刑の重さを判断することがおかしく、犯した罪の大きさに従って刑法に予め定められた刑で裁くべき。

    また、とんふぃさんが仰るように、応報の考えに立てば拷問の方がより合理的な刑になりますが、拷問という形で社会における悪を昇華してきたというのを無くしてきたのが、チェーザレ・ベッカーリア以降の近代刑法の歴史なので、今その議論を持ち出すのもナンセンスに感じます。

    勿論、究極は国民感情(被害者感情ではなく)ですが、「極めて凶悪な犯罪の場合は死刑でも仕方がない」という思いがある限りはなくすという事にはならないかと。ここはロジックではなく共感のコモンセンス。専門家はここで間違う。法治主義とは極限まで感情論を切り捨てることだが、人間である以上ゼロにはできない。

    否定派の主張は、できる限り運用でそうした問題が出ないようにするという絶え間ない努力をしましょうとしか言いようがなく、「交通事故死者が出るので運転免許を廃止にしましょう」という議論と(一側面では)似た話になっているように思います。

    世の中は折り合いなので。


    あと、日弁連が強制加入団体なのに、政治的主張をしている事にも違和感。死刑廃止という正義の下では自分の不正義は許されるという感じになっている。今でいう「反原発無罪」「反アベ無罪」みたいなもの。

    国家が殺人を犯すべきではないというのも、軍隊の存在や正当防衛など例外がありすぎて、一貫していないですね。


    追記
    いろいろな意見が出て素晴らしいヽ(´ー`)ノ
    私はNPとはかくあるべきだと思っています。
    一般の方々によるここまで健全な死刑に対する多数の意見が集約されている場はこれまで見たことがありません。
    とんふぃさんの思いと問いかけが皆さんに届いたんですね。


  • Pine Link co.,ltd Director

    一昨年、瀬戸内寂聴が「殺したがるばかども」発言をした時に書いてFBに投稿した一文。とんふぃさんとは少し異なる論点のまとめ方をしている。

    *******
    一応学部の卒論が刑罰論絡みだったので、この件は興味がある。この問題は刑罰の目的として何を重視するかで、主張が変わってくると思ってる。刑罰論は大別して応報刑論と教育刑論がある。前者では刑罰は罪を犯したものがその報いを受けることが主目的、後者は刑務所で教育を受けて再犯を犯さないようにすることが主目的になる。

    この考え方は、刑務所の運用にあらわれてくる。日本の刑務所はかなり教育刑論的で、房内での立ち居振る舞いから指導され、真人間になって出所するようにプログラムされている。一方海外には応報刑論的な刑務所もあって、例えば週末だけ収監されて「自由だけを奪われる」という運用をしている国もある。

    じゃあ日本じゃ教育刑論の方が強いのかというと、そうでもないんだよね。例えば、飲酒運転とか無謀運転で罪もない人が事故に巻き込まれて亡くなる度に、遺族は交通事故加害者の刑罰を重くすることを求め、世間もそれを認めてきた…というのは、日本社会が応報を重視することを示していると思う。で、自動車運転過失致死傷罪や危険運転致死傷罪が作られて、実際に交通事故加害者の刑罰は重くなってきた。

    さて死刑の話。応報刑論ではもちろん死刑はあり得るのだけど、教育刑論では教育するのが刑罰の目的なんだから、死刑はあり得ないということになる。この2つのどっちを重んじるかで、死刑への賛否が変わるのだ。(ちなみに冤罪があるから死刑反対というのは、オレはちょっと違うと思っている。無実で殺されたら取り返しがつかないというが、無実で何年も刑務所に入れられたって取り返しがつかないじゃん。冤罪は死刑と切り離して、それがなくなるよう議論すべきだと思う)。

    上で挙げた交通事故の話からもわかるように、日本は応報刑論的な考えがやっぱり主流だと思う。だからまだ、死刑賛成の人が多いと思うんだよね。これが変わるかどうかは全く不明なことで、まだまだ時間のかかること。こんな問題に対して、弁護士全員が加入を義務付けられている日弁連が、国民のマジョリティに反する宣言を出すというのは、よっぽどKYなのか、よっぽど上から目線なのか…と思うんだけど。ねぇ。


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