三森ゆりか 海外で通用しなかった日本の言語教育
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注目のコメント
ここで語られているランゲージアーツの内容がこの記事ではわからないですが、確かに日本の国語教育に決定的に欠けていることがある、というのはよくわかります。それは、「自分の主張を論理と証拠でサポートし、さらに例え話で肉付けする」という基本的なコミュニケーション技術のトレーニングです。
これは、僕が学んで、その後は自分でも教えていたLSEに限らず、欧米の厳しい大学ではエッセーを書くことで嫌になる程鍛えられるのではないかと思います(修士とかだと応募の時点で書かなきゃいけませんしね)。
僕の博士課程の指導教官によると、娘さんはイギリスの小学校で早々に「使ってる言葉や概念は小学校レベルだけど、求めてる記述のスタイルはLSEで私たちが学生に求めているものと変わらない」レベルで主張を述べる訓練をされているようで。
この技術は、あうんの呼吸で通じない、文脈が共有できてない人とコミュニケーションをする上では絶対的に大事なのですが、それが日本の教育ではあまり学ぶ機会がないように思います。それよりも「この人はどう感じたと思うか」と言ったように、文脈に隠れた意図とか心情を読み取る訓練をかなりやるので。ハイコンテキスト社会である日本で生きていく上では重要なトレーニングなのだと思いますが、そうではない社会の人と話す能力は鍛えられにくいのではないかと。森有正が昔フランス語教育と日本語教育を比較して、似たようなことを言っていたと思いますが、もっと深い分析をしていたと思います。言語と文化が結びついたものであることを意識していたからでしょう。
欧米では言語使用を技術として訓練することを修辞学と言ってきたわけで、これはギリシャ・ローマの古典に遡る伝統ですね。それは一つの文化です。文化的に違うところをただ技術として表面的に取り入れることができるのかどうか。また、そうすべきなのか?