いずれ、運命の出会いは絶滅する。
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言動の履歴がデータ化していくことで、様々なレコメンドやマッチングが行われることで、世の中から真の偶然性が失われ、作られた偶然性の中からあたかも自分の意志で選んだかのように思わせる、リバタリアンパターナリスティックな世界が徐々に進行して行ったとき、人々の日々の選択に対する幸福感がどのように影響を受けるのかという問題について、日々考えています。
この記事のように、選択の偶然性を「角バン」のような出逢いに例えて説明することは、例えば女子大で意思決定論を教えている私も似たようなことをすることはありますが、最終的にちゃんとした落とし所を正しく作らなければ、俗な喩えを出した価値が半減します。だから、最後の結論がトンチンカンになってしまう。
しかも、こんな風に「運命厨」のような生き方そのものが悲しさいっぱいです。
人との出逢いには確率などなく、合うか合わないかは二人の素質だけではなく、家族やバックグラウンドやその時の状況、タイミング、出逢い方、全てが影響し、最適解などない、極めて不確実性の高いマッチングです。
だからこそ、結婚は尊い。
そこに対するリスペクトを欠いて、合理的に論じてしまうから、テンションが上がって面白くなってしまうのでしょうが、だからこそダメなんです。
ちなみに、「恣意的」という言葉は、中国でも日本でも古来より「好き勝手に」という意味があり(恣は「ほしいまま」とも読む)に、「偶然」という意味もあるようですが、どうやら外来語の翻訳時にできた意味で、必ずしも本来の意味ではないと思います。
この方の解説
「恣意的」誤用説
http://d.hatena.ne.jp/takeda25/20121217/1355743008
によると、恣意的は偶然という意味だという俗説が広まったのは、2012年頃の2chスレの可能性があるとのことです。
ろくに調べもせず、俗説をタレ流して世間を惑わすのはほんとやめてほしい(最近こればっかり)恋愛における出会いを恣意性で読み解いた記事。非常に納得感ありますね。運命の出会いに価値を感じ、マッチングアプリをちょっと苦く思う自分がいるのは事実です。
20代と話して感じるのは恣意性へのこだわりが低いこと。いわゆるトレンディドラマのような出会い・恋愛に価値を感じていないので、マッチングアプリをうまく使っていたりするのが面白い。
この議論に、恋愛の先に一対一の契約=結婚というゴールがある、という価値観の変化と関係するかもしれません。
運命の出会いを良しとするのは社会通念上一人しか選べないから、という側面も大きいはずです。性別の壁や、人の暮らし方が多様化する傾向の中で、出会い方の価値観もまたかわりそうですね。