徳川時代、全国取引を活発にした「手形」の仕組み
コメント
注目のコメント
8月にお引き受けした講義の内容を全5回でご紹介する連載、3回目です。
今回は徳川時代を舞台とした決済システムのお話です。
皆さんのコメント、嬉しく思います。
10月20日にお引き受けすることになる講義の準備に、ぜひ参考にさせて頂きます。
ご意見賜れば幸いです。1998年、紛争後のボスニアヘルツェゴビナを旅行した際、街によって使われている通貨がバラバラで驚きました。ボスニアディナール、ユーゴスラビアディナール、クロアチアクナが隣街同士でも使えたり使えなかったり、どこでも使えるのがドイツマルク。銀行に行けばドルも使える。そして子供達はおそらく混乱期に乱発されたゼロがいくつついているのか数えられないようなハイパーインフレ期の札をおもちゃとして使っていました。
街に着いたらまず銀行にいってマルクをその地域の通貨に換金してもらわないといけません。私はトラベラーズチェックで行っていたはずなので、それがどの程度銀行で使えたのかいまいち記憶がないのですが、現金が常に不足して野宿とかしていました。
経済音痴の学生だったので、大変だなあぐらいの感覚で見ていましたが、物価評価の違いや物流の扱いなど興味深い現象がいろいろ起きていたのではないかと思います。紛争終了は一応1996年だったはずなので、その後2年弱経っても安定はしていなかったということですが、私の滞在時にすでにユーゴスラビアのコソボ紛争は始まりかけていました。
まさに戦国時代だったということですね。
首都サラエボでは中央駅は焼け落ち、国会議事堂には大砲の風穴がいくつも空き、オリンピックスタジアムは仮設墓地となっているという状況でしたが、人々は明るく。
言葉も通じない日本人の私を喜んで受け入れて、うちに泊めてくれたりしたのが印象的です。"地域間で価格が違っていると、裁定取引が始まります。つまり、みんな安く買って、高く売ろうとする。"
裁定取引は一次的ですがものすごく儲かる時があります。当然ですが、全ての価格にまつわる情報を誰よりも早く手に入れられる時です。ネットの普及初期の頃はいっぱいありましたね