【広瀬一郎さん追悼】「今やらないでいつやる?」

2017/5/23
日本のスポーツビジネス界に多大なる貢献を果たした広瀬一郎さんが、今月初め天国に行かれた。
正直なところ、あまりに突然の悲しい出来事に気持ちの整理がつかず、なかなかこの大事な件について公私ともに触れることができなかった。
数週間経って少しは冷静になることができたのに加え、良いときも悪いときも長年にわたって真剣に日本のスポーツ界と向き合ってきた広瀬さん、2020年東京五輪を控え日本のスポーツ界が未曽有のチャンスを迎えるときにもかかわらず無念だったであろう広瀬さん、そして改めて振り返ると間違いなく「恩人」の一人である広瀬さん、の遺志をくんで残されたわれわれが日本のスポーツをさらなる高みに成長させていかなくてはとの思いから、広瀬さんが半生を捧げたスポーツ界と日本の「人材育成」の重要性に触れることにより、広瀬一郎さん追悼の記としたい。
広瀬一郎(ひろせ・いちろう)
 1955年静岡県生まれ。東京大学卒。1980年、電通に入社してワールドカップ(W杯)やサッカーイベントのプロデュースに携わる。1994年11月、2002年W杯招致委員会事務局に出向し、W杯招致に尽力した。1999年12月にJリーグ経営諮問委員会委員に就任。2000年に電通を退職し、インターネットメディア『スポーツ・ナビゲーション』を立ち上げて代表取締役を務めた。2004年にスポーツ総合研究所を設立。2017年5月2日逝去

スポーツ人材育成のパイオニア

広瀬一郎さんは、静岡県知事選挙への立候補やテレビ出演ほか、著述家としても知られているが、スポーツ界においては、電通時代のトヨタカップ・プロデューサーや2002年FIFAワールドカップ日本招致委員会での仕事、日本プロサッカーリーグの経営諮問委員会委員、今のスポーツナビの元となったスポーツ・ナビゲーション設立などで活躍された。
しかし、スポーツ界において大いに評価されるべき貢献は、後年力を注がれていた「人材育成」だと思う。

広瀬一郎氏の偉業 

江戸川大学や多摩大学大学院でも教授を歴任されたが、財団法人東京大学運動会とともに自ら2003年に立ち上げられたSMS(スポーツマネジメントスクール)での活動は、特筆に値する。
現在は、私もアドバイザーを務めるSBA(スポーツビジネスアカデミー)の中に組み込まれ、2017年の今も続いている、在野のスポーツマネジメントに関する最も老舗のスクールである。
このSMSの何がすごいかと言うと、サッカー・野球・バスケットボールを始め幅広いスポーツ界に、大量の人材を輩出し続けてきたことである。千人には及ばないかもしれないが、何百人という人材を、十数年以上にわたりスポーツ界に送り出し続けてきたのは、本当に素晴らしい偉業だと思う。
前述のSBA設立者&代表者でNewsPicksプロピッカーも務める荒木重雄さんは、その良い例である。
ドイツテレコムの日本法人社長などを歴任してキャリア的には成功していた荒木さんが、まだ日本でスポーツビジネスという言葉すらあまり聞かれなかった当時、元熱烈野球少年としてどこか悶々とした気持ちを抱えながら、わらにもすがる気持ちでたたいたのが、設立まもないSMSだったのである。
広瀬一郎さんの薫陶を受け、SMS修了後、スポーツビジネスへの転職を決意した荒木さんは、大好きな野球界に身を投じた。
その後は八面六臂(ろっぴ)の活躍ぶりで、千葉ロッテ球団の経営改革に従事、パシフィックリ-グマーケティング(PLM)取締役、野球日本代表・侍ジャパンの戦略担当などを歴任され、日本スポーツ界のキーマンの一人として活躍されている。
実は、大学卒業後すぐに海外に出てしまった私には、SMSなどで広瀬さんの薫陶を受ける機会が、残念ながらなかった。
それでも、私が敬意を表して、広瀬さんを「恩人」と呼ぶのには理由がある。私の人生にとって大事な一つの出来事が、広瀬さんとの間であったからだ。
当時住んでいたアメリカから日本に行き、2002年日韓ワールドカップを観戦して、私の人生は大きな転換期を迎えていた。
「生きている間に、日本でもう一度ワールドカップを開催して、そこで日本代表が優勝するのを見たい!」との想いを抱き、シリコンバレーのIT業界からサッカー界への転身を決意していたのだ(「TAMAJUN Journal」参照)。
決意をしたが早いか、日本を含むいろいろな国を駆け巡り、サッカー界に関わるさまざまな方に自分の想いを伝えるとともに、その夢実現のためのアドバイスを伺った。
幸運にも、後にともに日本サッカー協会名誉会長となられた小倉純二さんや大仁邦彌さんなどの重鎮からアドバイスもいただいたし、SMSを始める前後のころの広瀬さんにもお会いして決定的な一言をいただいた。
スポーツビジネスを志す若者への4つのアドバイス

「お前はバカか」が人生を変えた

「欧州でMBAを取得して、まずは欧州サッカー界に転職」へと目標を定めた私だが、実はまだ心に迷いがあり、その迷いを広瀬さんに打ち明けたところ、いまだに鮮明に覚えているとても大事な一言をいただいた。
岡部 将来のワールドカップ日本再開催&日本代表初優勝を目指して、サッカー界への転職を考えています。しかし、日本のスポーツ界を見ると、普通のビジネス界とは異なりまだ未成熟な部分があります。今サッカー界に移るよりも、もう少しヒト・モノ・カネの面も含めいろんな意味で成熟してから行くほうが良いのかも、という迷いもあります……。
広瀬 お前はバカか!(笑)。確かに、君の言うことには一理ある。しかし、そういう未成熟な状況ゆえ、君が今始めるのと、10年待って業界も成熟してきて他の皆も入ってきたときにヨーイドンで一緒に始めるのと、どっちが良いと思う?
と、今改めて振り返っても、感謝感謝しかないお言葉をいただいたのだ。

凡人にとって有効なやり方

この話を生前の広瀬さんに笑い話としてすると、「俺は、『お前はバカか』などと決して言っていない!」と、うれしそうに言い張っていた。確かに、私の中で美談化されていて、本当は違う言い回しだったのかもしれない。
しかし、それが重要なポイントではなく、広瀬さんがおっしゃった「今始めるのと、10年後にみんなと一緒にヨーイドンで始めるの、どちらが良いと思う?」という一言が、私に突き刺さったのだ。
当然ながら、何の世界であれ、「人より先に始める」と「あきらめずに長く続ける」ことは、凡人が何かに秀でるためには、とても有効なやり方であるのは言うまでもない。そして、私のその後のケースは、まさに広瀬さんの先見の明を証明する例となったのだ。
それから10年以上も経った2015年ごろに、前述の広瀬さんの愛弟子でもありビジネスパートナーでもあった荒木重雄さんが、広瀬さんのSMSと一緒になって、SBAを設立された。
SBAにアドバイザーとして参画することになった私は、2015年末の日本帰国時に、SBAにて講演を行った。
会場には、司会進行役の荒木さんに加え、最後尾には、何とSMS設立者であった広瀬さんの姿もあった。広瀬さんの前で講演するのも大いに気が引けたが、自分の専門分野の一つである放映権について話をした。
そして、講演をしている最中に、あのときの広瀬さんとの対話が鮮明に蘇り、ふと気が付いた。「まさに、広瀬さんの言う通りになっている」と。
ワールドカップ優勝への道はまだはるか先ながらも、「少なくとも、UEFAチャンピオンズリーグのビジネスに携わる初めてのアジア人として10年やり続けた自分だからこそ、ここで偉そうに講演をして、それなりに価値があると思われる話ができるわけだ。もしあのときに始めていなかったら、自分も向こう側で、まだ迷いながら講義を受けている身だったであろう」と……。
それに気づいた私は、講演の最後に、この広瀬さんとのエピソードを披露した。
講演に来て下さった皆さんのなかにはエリートのビジネスマンが多かったが、まだスポーツ界に携わっておらず、広瀬さんに話を聞きにいった当時の私のように、迷っているのであろうと見受けられる人が結構いらっしゃった。
そこで、私が広瀬さんに背中を押してもらったように、日本そして日本の将来を担う皆さんの背中を押す気持ちでこの話をしたのだ。
今まで、天国に行かれた広瀬さんを始め多くの方々にお世話になってきたが、私が大先輩方のためにできることは、残念ながらもうあまりない。
しかし、広瀬一郎さんが半生を尽くしてきた「人材育成」こそが、今後さまざまな困難な局面を経るであろう日本及び日本スポーツにとって、最も大事なことであることに疑いの余地はない。
ゆえに、大先輩方の恩に直接は報えない代わりに、私が恩恵を被ってきたように、次の世代に「Pay Forward」をしていきたい。
そこで、ここまで記事を読んで下さった皆さんに、改めて問いたい。
「今始めるんですか、それとも10年待って他の皆と一緒にヨーイドンするんですか?」
あのときに広瀬さんが私の背中を押してくれたように、皆さんの答えを聞く前に、自分の経験から断言します。
「今やるしかないでしょう!」
「今やらず、いつやる?」
日本や日本スポーツを立派に築きあげてきた先人たちの意思を引き継ぎ、ぜひとも日本スポーツをドンドン盛り上げていきましょう!
少し偉そうになってしまいましたが、この特別な状況ですし、天国の広瀬さんも「岡部、よく言った!」と、許してくれるかと思います。
広瀬さん、本当に大変お世話になりました。広瀬さんの遺志を引き継ぎ、残されたわれわれも日本スポーツのさらなる発展のために頑張りますので、今後とも見守っていてください。本当にありがとうございました。合掌
岡部恭英 拝
(バナー写真:Action Images/アフロ)