「全員に金を配る」。壮大な社会実験が始まった

2017/1/9
北欧で会した2つの主体
2016年12月1日、北欧の小国フィンランド。時折路面も凍てつく極寒の中で、首都ヘルシンキの一角は、異様な熱気を帯びていた。
「ベーシックインカムは、我々の世代のMoonShot(月面ロケット打ち上げ)だ」
世界各国から約2万人が集まる欧州最大級のテクノロジーイベント「SLUSH」のステージで、ベーシックインカム(BI)のセッションが行われ、大勢の聴衆が押しかけていたのだ。
SLUSH2016で行われたセッション。
(写真:Sami Välikangas)
BIとは、国民に対し、収入、職業、年齢などにかかわらず、全員に無条件で最低限の収入を給付する制度だ。国民全員の生活を保障する一方で、生活保護や年金などの複雑な社会保障を根本的に変えうる潜在性を秘めている。
単純化すると、「全員にお金を与えます」という仕組みだ。
だが、そんな国家政策にも関わる議論が、なぜ北欧のテクノロジーイベントで取り上げられ、参加した起業家らの注目を集めたのか。
それは2017年にかけて、これまで「理想論に過ぎない」と揶揄されることもあったBIについて、実際に試験導入へと踏み込んだ2つの主体が、一堂に会していたからにほかならない。
フィンランド(政府)。2017年1月にBIの試験導入を開始した。
Yコンビネーター(米ベンチャーキャピタル)。シリコンバレー近辺のオークランドで社会実験を本格化させた。
そして、何よりも興味深いのは、役割のまったく異なる2者がBIに突き進む理念が、起業家や若い世代を中心に、世界で一つのムーブメントを起こし始めていることだ。
AIの時代に、BIが必要
「BIは今、その長い歴史でも一つの熱狂的な瞬間を迎えている」
SLUSHでは、登壇した米メディア「クオーツ」のジェイソン・カライアン氏がこう何度も強調した。
BIの考え方の歴史は18世紀に遡り、20世紀に入ってからも何度かブームが起きていたが、「誰も働かなくなる」「コストがかかりすぎる」との反対も根強く、本格導入されることはなかった。
だが今、フィンランドのほか、BI導入の国民投票を実施したスイス(否決)など欧州での動きが、洋を超えた米シリコンバレーで活発化し、最近は、米テスラ・モーターズのイーロン・マスクや、米大統領のバラク・オバマなどが積極的にBIに言及し始めた。
米ニューヨーク・タイムズや英ガーディアンなど主要紙も、国を問わずこぞってBIについて幾度となく取り上げている。
スイスの国民投票では、賛同者による大きなサインがつくられた。
(写真:ロイター/アフロ)
そのムーブメントを分析すると、大きく2つの問題意識が交わっている。
社会保障の限界:生活保護や年金、失業保険など、20世紀を支えてきた社会保障がどんどん複雑化し、限界を迎えていること。
テクノロジーの発展:人工知能(AI)や、機械の自動化の進展で、人間が完全雇用を維持するのが難しくなっていること。
前者は北欧由来、後者はシリコンバレー的と言えるかもしれないが、共に産業の変遷期には、社会保障も変わるべきだという共通の理念で一致している。
「正社員の仕事が減るなかで、フィンランドでは、不安定な職に就くより、失業手当をもらう方がマシという人も少なくない。逆に、『完全雇用がなくなる』という前提で制度をつくれるのがBIだ」(フィンランドのシンクタンクのルーペ・モッカ氏)
「今後、テクノロジーの進展で、確実に人間の仕事が減っていく中で、我々個人にどういう影響が出てくるのかを研究するのも我々のBI実験の目的だ」(Yコンビネーターのマット・クリシロフ氏)
ポスト工業時代の社会の仕組み
だが、BIが賛同を集めるのは、そうした社会保障面だけにあるのではない。
むしろ、20世紀を支え続けてきた国家や産業、労働の仕組みが大きく変革する潜在性を秘めていることにこそ、大きな注目が集まっている。
「BIとは、工業社会時代の国家のソースコードを書き直すことだ。国家のOSを変えることと言ってもいいかもしれない」(カライアン氏)
産業革命以来の工業時代では、その発展に多くの労働者を必要とし、勤勉であることが「是」とされてきた。だが、デジタル革命の進展で、産業の形が変わりゆく中で、労働の対価を前提にしないBIは、社会の根本的な仕組みを変える可能性があるのだという。
「人類は200年にもわたって、いかに『仕事が重要か』というストーリーを作り上げてきた。それは宗教であり、文化であり、倫理だった。それが変わっていく大きな試みとなるだろう」(米VCユニオンスクエアベンチャーズのアルバート・ヴェンゲル氏)
(写真:Sami Välikangas)
もちろん、BIは働くことを否定するものではない。むしろ最低収入を得られることで、正社員でもフリーでも、安心して働く選択肢を手に入れられるのも特徴だ。
「BIは、我々個人が自分たちの時間をどう使うのか、その一番根本的な『自由』を与えてくれるというのが一番重要なことだ。農業社会から工業社会で、村から都市へと大きな変化があったように、BIでも個人のあり方が大きな変化を遂げる」(同)
日本でも本格検討されるのか
このように、フィンランドで実験が始まる2017年は、BIが世界に伝播していく大きな一歩でもあり、「元年」とも言える。
上記の2つ以外でも、2017年は、オランダの複数の都市やカナダ、スコットランドなどで、BIの試験導入を本格化させる計画だ。
だが、もちろん、「無条件に金を全員に配る」という壮大な社会実験は反発も強く、シリコンバレーや起業家の間で賛同が集まるほどの熱量で、各国政府が具体的な検討をしているわけではない。
【北欧要人】ベーシックインカムは「すべき」ではなく「マスト」だ
この特集では、まずこの実験がフィンランドで始まった理由をひもときながら、なぜ今世界で盛り上がりを見せているのか、そもそも実現可能なのか、世界の著名起業家や学者たちがなぜ議論に参加するのか、レポートしていく。
また、政策面としてのBIだけでなく、個人の「働き方」や「生き方」をいかに変革する可能性があるのかについても、識者らの考えを紹介する。
一方で、日本では公にはBIの議論がまったく進まない中、導入の可能性はあるのか、そのためのハードルとは何なのかも、具体的に紹介していきたい。
BIは本当に、壮大な挑戦をも意味する「moonshot」となり得るのか。
NewsPicksでも幾度となく取り上げてきたテーマだが、日本でも賛否を含めたより大きな議論が起こることを願っている。