ユニフォームの効果──ポスト資本主義時代の起業術
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制服というのはとても共通意識を持つのに優れています。が、反面個性を出しにくくするという面もあります。
タイだったかフィリピンだったかのある日本企業で、現地採用したスタッフの素行が悪く就労意識も低かったので、現地の責任者がスタッフにユニフォームを与えました。
すると、みるみるうちに愛社意識が生まれ、チームワークが生まれ、その企業のスタッフらしい振る舞いに変わっていったといいます。
これは、アメリカの心理学者フィリップ・ジンバルドーが行った心理実験で、スタンフォード大学の地下に監獄を造り、そこに雇った看守役と囚人役を配置し、観察するというものがありました。
この実験は見事に囚人役の暴動で大失敗に終わったのですが、結果としては心理学会に大きな衝撃をもたらしました。
それは、人は役割や服装で人格がいとも簡単にに変わってしまうということです。
また、制服は個性を消すという役割も持っていますので、その職業や役割意識をもたせやすいということでしょう。
110番して駆けつけてきた人に『鈴木さん、こちらです』とは言わないですよね、きっと殆どの人が『お巡りさん、こちらです』と言うはずです。
そこに個人はいらないからです。
同じようにビジネスの世界でも、よく「〇〇さん」と名前ではなく所属会社の屋号で呼ばれることがあると思います。
それも同じことで、先方は(少なくともその段階では)その個人を見ているのではなく、「所属会社の人」として見ているのです。
従って、制服を着用している職業や役割に就いている人は、個性を出そうとするよりも、その集団が担う役割を理解し『らしく』振る舞うことが上手くいく秘訣でしょう。
ビジネスマンとしては早く自らの『個人』を知ってもらうことでしょうね。
そういう意味でも、男性のスーツについては「ビジネスマン」という役割だったのでしょうが、もはやファッションと化しているのも頷けますね。
マナーの領域にあって、その役割意識も薄らいでいるのでしょう。
反対に、ビジネスマンを表現する物としては別のものが代用されてくる(来ている)のかも知れませんね。
注目のコメント
単一の意味のユニフォームとは少しズレますが、野球とサッカーの監督の差異が面白いなと思います。
野球は選手上がりもしくは選手兼任監督が昔から存在していたこと、ベンチも立派なファウルグラウンドの一部であること、交代や抗議など采配時にグラウンド内を歩くことなどからユニフォーム姿しか見ません。(ルール上どう制限があるかは未確認)
サッカーは選手と監督がほぼ明確に分けられており(プレーヤーは労働者階級が強かったのに対し、監督はパトロンや様々な組織と付き合いのできるエリート性が求められていた?)、またグラウンドとはピッチ内を指すので監督はルール上入る必要がないため監督はピシッとしたスーツを着ていたりします。もちろん自由なので岡田武史やクロップなどクラブのジャージを着ている人もいます。彼らの服装には「自分は選手と近い存在である」「現場主義である」意思が込められているように思え、マネジメントのスタイルに想像が及んで面白いです。