マインドフルネスと禅、その決定的な違いは何か?
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マインドフルネスと禅の違いなどないと思います。
禅というのはそれこそ悟りに向かうような状態になることだとすると、マインドフルネスというのはその方法だと考えます。
しかも、生活全体に広がっているというのも両方同じことです。
「人はあまりに無意識的に生きているので、それを常に意識的に生きましょう、その練習をしましょう」というのがマインドフルネスで、そうすることによって負のサイクル(悪循環)を断ち切り、正のサイクル(良循環)に変えていく方法の1つです。
そして、負のサイクル(悪循環)を起こしていた自分の『在り方』に気づき、『何者でもない』ことに気付こうとするのが禅ではないかと考えます。
何者でもないからこそ何者にでもなれる・・・。
これが本質だと思います。
注目のコメント
マインドフルネスを診療に取り入れている心療内科医の立場から言えば、この記事には、異議あり!
不安解消や健康などの目的を持つのが、マインドフルネス。
こうした目的を持たないのが座禅だと記事には書かれている。
でも、目的に執着された心を解放するのが、マインドフルネスの大事な部分。
というか、この部分こそが、効果を発揮する原因だと指摘されています。
私も「はじめはウソでもいいので、目的を求める気持ちを脳から捨てちゃいましょう」と患者さんに指導してます。
そして、やがて、本当に捨てちゃうことがデキて、ストレスが消える。
それが、マインドフルネスってもんです!ちょっと残念な記事。「ビジネスZEN入門」という自分の本を売るというゲインが目的になっている(笑)。
記事に補足すると、特定のものごとに心をとめておくという仏教用語の「サティ(sati)」にイギリス仏教学者のトーマス・ウィリアム・リース・デイヴィズ氏が「マインドフルネス」という訳語を最初に用いたと言われています。
ダライ・ラマと並び称される仏道指導者の一人、ヴェトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師の本「気づきの奇跡」では、「サティ(sati)」に「気づき」という訳語を用いています。
つまり、「マインドフルネス」とは「気づき」のことです。
ハン師は、今していることに全力で集中することが生きることだ、と言います。
<『みなさんは皿洗いをしながら、そのあとにお茶を飲むことばかり考えて、できるだけ早く皿を洗い終えて、坐ってお茶を飲みたいとおもっていませんか。もしそうなら、皿を洗っているときには、その時間は(真の意味で)生きられていないのです。皿を洗っているとき、皿洗いはあなたの人生の中で、最も大切なことでなければなりません。(中略)』‐ほかのこともみな同様です。(P33)>
他にも以前、読んだ「サーチ・インサイド・ユアセルフ」の中にもマインドフルネスは、今を大切に生きる、という箇所がありました。
<私と娘はたいてい毎晩寝る前に腰を下ろして、マインドフルな状態で二分間過ごす。(中略)。私たちは生きていていっしょにいるということを毎日二分間、静かに楽しむ。(中略)。たんに、あるがままでいることを。たんに存在するというのは、人生で一番当たり前であると同時に一番貴重な経験だ。(P58)>
マインドフルネスに興味をもって、この記事を読んだ方のご参考になれば嬉しいです。
参考:
・〈気づき〉の奇跡: 暮らしのなかの瞑想入門 ティク・ナット・ハン (著)
・サーチ・インサイド・ユアセルフー仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法 チャディー・メン・タン (著)禅の目的は悟りの境地に至ることであり、マインドフルネスの目的は幸福度、健康度、生産性、発想力、スポーツ成績などを高めるような禅で言う三昧、アスリートの言うゾーンと呼ばれる境地に達することという方が多いかもしれません。
悟り体験=すべてとの一体感を体験すると世界が変わりますが、しかしそれを求めて瞑想しても上手くいかないことが多いです。なぜなら脳は信念を体験に変える働きをしており、期待や欲は「今はそれがない」と信じる人の感情なので脳は「今はそれがない」という信念を読み取り、その通りの体験=悟りを得られない体験を創ってしまうのです。
だから何でもそうですが手に入れたい物に欲や期待を抱くのは逆効果で、むしろ始めに感謝したりすでにそうであるかのように行動することが近道となります。感謝は「今それを手にしている」人の感情なので脳は「今それを手にしている」という信念を読み取りそれを経験=手に入るという体験に変えます。
同様に悟り体験を得たければ、すでにすべてとひとつであるかのように行動することが近道となります。すべてを自分自身として扱うということです。そして欲や期待を手放し、すべてに感謝することです。あらゆる苦行はそのような心境に至ることを目的としています。