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【波頭亮】いま、正義はあるか。民主主義社会の顛末を問う

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  • 戦略コンサルタント、ベンチャーインキュベーター

    面白そう。pick


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  • フリーランス webコンテンツ/システム制作 PG/Director

    資本主義経済は、もはや一国の中での格差ではなく、グローバリゼーションを前提とした世界全体での格差を考えるべきです。
    今迄地域間での格差の上に成り立っていた先進国経済の搾取の形態が、国の枠組とは無関係になってきた事の現れでもあると思います。
    経済における帝国主義的な構造が、すでに限界にきている。地域間での絶対的格差がなくなった分が、同一社会内での格差に広がっている。今迄地域差で受け持っていた役割が地域差によるものでは無くなってきている。
    これは常に今以上の利益を追及し続けなければならない資本主義経済活動の構造の問題。

    そう考えると地域的な枠組みの中でのBIも、それだけでは格差の解消には不十分となります。格差は無くなりません。


  • ハイロード・コンサルティング 代表社員

    刺激をもらったので私見を述べます。経済にかかわる思想が大きく変わったのは中世ヨーロッパだったと思います。

    暗黒時代と思われている中世ヨーロッパは数々の発明があった時代です。清貧であるべき教会の理想と現実、価値そのものへの省察、大商人の台頭、などなど、掘り下げるといろいろ出てきます。

    経済史から参考になったのは「嘘と貪欲」という本でした。哲学や神学まで省察するなら中世哲学の大著「天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡」もよいです。

    忘れられがちですが、西洋の思想の根底にはキリスト教が流れています。このあたり、微妙にギリシャ哲学とマッチョなローマ哲学が混入していて、感情を女性的なものとして貶め、理性と霊性を望ましいものとしました。中世末期に神学から哲学が分離し始め、理性が礼賛されるに至ります。

    誤解を恐れずに言えば、哲学と信仰は我々を動物ならざるものにしたと思います。しかし現実の我々は「スーツを着た原始人」(疲れをとる技術より引用)が妥当と考えます。そんな矛盾をかかえた我々には、正義も悪も強きも弱きもひっくるめて、ほどほどによく生きられる社会だとよいなぁ、と思います。


  • ビジネスコンサルタント

    毎週プロピッカーによる書評をお送りする「Pro Picker’s Choice」。今回は経営コンサルタント波頭亮氏による書評を掲載しています。

    資本移動の自由化により国民統合だけでなく社会統合さえ弱まる中で、「連帯」はいかに可能か。これは非常に核心を突く政治哲学的な問いです。

    G・ドゥルーズはある文章の中でこう言っています。「われわれは、自らが他者に対して〈邪悪〉になった方が有利な社会状況を生きている」と(*註)。また、資本主義に存在する〈普遍〉には「市場」のメカニズムしかないとも述べています(*註2)。つまり、資本主義社会においての決定的な「審級」こそは市場メカニズムなのだということです。メカニズム、と。ゆえにそこには弱者を包摂する「感情」がない。むしろ感情は、社会の閉塞感を打破するためのはけ口として利用される。
    私はこれを読んだ時、世界各地での排外主義を想起せずにはいられませんでした。

    ポスト構造主義以降、もはや誰もが「全体」や〈普遍〉を語りたがらなくなってしまった現在。しかし、それでも真面目にそれらのテーマに取り組もうと挑んだ著作がこれら3冊。いずれも読み応えがありそうです。

    *註 G・ドゥルーズ「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」『無人島1953-1968』宇野邦一[訳]、河出書房新社、2003.
    *註2 G・ドゥルーズ「管理と生成変化」『記号と事件』宮林寛[訳]、河出書房新社、2007、346貢.


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