watson_02_bnr

IBM東京基礎研究所 武田浩一氏に聞く(後編)

ワトソンを人工知能と呼ばない理由

2015/9/16
2011年2月にクイズ番組で勝利して以降、「IBM Watson(ワトソン)」に対する注目は高まり、2011年秋には何社かの企業とプロジェクトが始まった。開発チームはその後、ワトソンの技術に磨きをかけ、2014年初頭には事業化に向けたグループが正式にスタートした。以降、1年半余り、さまざまな取り組みが進み、ソリューションや製品群が登場してきている。前回に引き続いて、日本IBMの武田浩一氏に、ワトソンの活用分野やパートナーとのエコシステム、展望について聞いた。

がん治療を軸に医療分野で進む応用

──かつて、人工知能(AI)が人間の知能を超えるといわれた時期もありました。実際にはそうならず、人間とコンピュータが補い合いながら、できなかったことが可能になっていくと考えてよいのでしょうか。

武田:その通りです。IBMは人工知能という言葉をあまり使いません。人工知能というと、人間の知的能力を工学的に実現したり、人を代替・超越する知的能力の研究を想起させる場合があり、そのような固定的イメージを持たれることを避けたいからです。

そこで、より現実的に考えて、人間の苦手な部分の支援を通して、協調的で知的な意思決定ができることを目指しています。そのために、医療や教育など属人的な負担の多いところに、ワトソンの技術を入れていくことで、よりよい意思決定が可能になると考えて、さまざまな分野で応用に取り組んでいます。

日本アイ・ビー・エム 東京基礎研究所 ナレッジ・インフラストラクチャ担当 技術理事 博士(情報学) 武田浩一氏

武田浩一(たけだ・こういち)
日本IBM東京基礎研究所 ナレッジ・インフラストラクチャ担当 技術理事 博士(情報学)

──ワトソンの応用について、分野ごとに教えてください。

今、一番進んでいるのが医療分野で、米国を中心にさまざまな取り組みが広がっています。がん患者に対して、望ましい検査や処方の選択が可能になるように、医師の判断力を強化するような使い方が中心です。

日本で初めて採用されたのは人間のゲノム情報を取り入れて治療方法を考えようという東京大学医科学研究所の応用事例です。ワトソンの情報源は、FDA(米食品医薬品局)で認可された医薬品の情報や2000万件以上ある医療文献抄録情報などすべて英語のものです。

日本では著作権の問題もあって、医療文献抄録でさえ、日本語の情報の利用が難しいのです。そこで、当面は英語情報を利用して、患者個々人に合った治療方法を探っていくほうが現実的だと思います。

──コールセンターでの活用も始まっていると聞きました。

コールセンターや金融機関での資産運用の事例があります。コールセンターでは、FAQなどの質問とその回答を含んだ情報源を利用しています。資産運用では、顧客に対する推奨金融商品をファイナンシャル・アドバイザーに提示します。

コールセンターに関して公開されている事例はまだ多くないのですが、応用例に米国で退役しようとする軍人の質問に答えるために、昼夜の別なく運営されているUSAA(United Services Automobile Association)のウェブサイトがあります。

会員数は約1000万人、毎年退役する軍人が15万人くらいですが、若い世代で退役する人はコールセンターに電話をするよりもウェブサイトやワトソンを活用するほうが好まれるようです。

「月までの距離は?」に答えるおもちゃも発売予定

──ほかの分野ではどうでしょうか。

面白いのがワトソンデベロッパー・クラウドで、クラウド上にワトソン関連のAPIが15種類公開されています。音声認識、画像のラベル付けなど、「ジョパディ!」出場時には使っていなかったものも含めてさまざまなAPIを公開して、デベロッパーが自由にソリューションをつくれるようにしています。

ワトソンもハッカソンのようなものを行ったり、優秀なアイデアにはアワードを出したりしています。その優れたものの一つに、「コグニトーイズ」というプロジェクトがあります。

これは恐竜のおもちゃをつくって、「月までの距離は何千キロか」というような質問に答えたりして、子どもと対話して、楽しみながら学ぶエデュテインメント分野のプロジェクトで、恐竜のおもちゃは2016年から99ドルで販売する計画です。

教師だと教室の平均値で教えますが、これからは個々人の進捗状況や得意不得意を考慮しながら教えるといった教育手法が出てくると思います。特に発展途上国で働きたい人がたくさんいる国での就職支援や、小さな子どもの得意分野を伸ばす教育に応用できると考えています。

このようなかたちで、IBMとパートナーも含めた全体を支える仕組みをワトソンエコシステムと呼んでいて、今後非常にユニークなソリューションが登場する可能性があります。

Watsonとインターネットでつながり、子どもと会話をしながら一緒に学習するスマートおもちゃ「コグニトーイズ」。2015年3月にはKickstarterで27万5000ドルを調達

ワトソンとインターネットでつながり、子どもと会話をしながら一緒に学習するスマートおもちゃ「コグニトーイズ」。2015年3月にはKickstarterで27万5000ドルを調達

──医療分野について、もう少し詳しく教えてください。

米国では病床の多い病院で、共同でソリューションを考えています。クリーブランド・クリニックでは、医学生への教育にワトソンを使っています。

メモリアル・スローン・ケタリングがんセンターの事例はがんに関する知見の獲得にワトソンを利用しています。がんは同じ部位のものでの診断プロトコルが何種類もあったり、新薬が出たり、抗がん剤に副作用が見つかったりします。

そのため、ずっと同じ治療をしていればよいというわけでなく、そうした変化に対応して治療方法を変えなければなりません。そのために、医師が架空のケースをつくって、対応と治療の仕方を勉強するのですが、そこでワトソンが使われています。

またメイヨー・クリニックでは、臨床試験と患者のマッチングのためにワトソンを利用しています。臨床試験で想定しているような患者がなかなか集まらず、治験の長期化や失敗することがあります。

それを避けるために、ワトソンで効率化するのです。一方で、承認薬だと効果がない患者に、臨床試験で試してみたらどうかと提案する機会も増えます。

──東大はゲノム情報を組み込んだワトソン利用で何を目指しているのでしょうか。

がんの治療は今後、特定の遺伝子の変異を阻害する抗がん剤を処方する機会が多くなるでしょう。そうすると、遺伝子情報は欠かせず、それがマッチしない患者に抗がん剤を処方しても、効果がありません。

東大の研究はそこに焦点を当てています。がんは情報が複雑で、医師も患者も治療に苦労しているので、今後も医療分野でのワトソン活用の中心になるでしょう。

対話技術を中心に開発

──ディープラーニング(深層学習)技術の実用化が急速に進んでいて、画像認識や音声認識などで高い精度が実現されるようになっていますが、ディープラーニングとワトソンはどう関係するのでしょうか。

ワトソンはテキスト情報処理が得意ですが、業務にかかわるテキストアーカイブを持たない企業も多くあります。そのため、IoT(Internet of Things)やセンサーなどの数値情報によるディープラーニングのほうが産業応用全体でインパクトは大きいと思います。

ただ、それだけだとアラートなど比較的単純な処理にとどまるため、意思決定など人間が対応するような高次な情報処理ソリューションに取り組もうとすると、ワトソンが必要になってきます。

──今後はどのような広がりが考えられますか。

医療からヘルスケア全般に広がる「ワトソンヘルス」の取り組みを進めていきます。人間が普段装着している携帯機器やスマホなどのデータと自分のプロファイルを合わせて、慢性疾患の予防や治療に使える仕組みに注力することになるでしょう。

また、高度に専門化した複数の知的システムと協調する際に不可欠なのは対話技術です。もともとのワトソンは質問に答えるかたちでは使えますが、対話をしながら、問題を解いたり、情報を得ることはできません。

英語ではワトソンに対話機能が追加されましたが、今後の多言語対応やより複雑な問題解決を可能にするために、対話が研究テーマとして重要になります。

アップルのSiri(シリ)のように対話のインターフェースを運用している企業には対話データが蓄積され、人が持つ興味や対話パターンがわかります。

そこで、レストランの予約と天気予報をまずサービスとして立ち上げ、それができるようになれば、もう少し高度な組み合わせのサービスを提供していきます。そうしたかたちで対話例を集めながら、対応できる対話パターンを増やしていき、サービスを拡充します。

たとえば、100万人のユーザーがいるときに、どういったサービス提供のアピールが効果的かは予測もできませんし、関心事やサービスがロングテールになると、さらにわかりません。

そのため、データを蓄積しながら、できることを増やしていき、だんだんと拡充していくのがビッグデータ活用を成功させるサービスの本来のアプローチです。

そうした取り組みなしに、研究室でいくら考えても、うまくいきません。マルチで欠けている情報を聞いたり、思い違いをいくつかの情報を出して修正したりできるように、対話の要素をワトソンに盛り込んでいきます。

──今後重点的に活用される分野について教えてください。

さまざまな分野の専門家、たとえば医師や教師、資産運用や投資、政策決定者などに対して、意思決定のレベルをさらに上げていくことを目指していくでしょう。

一方で、ソフトバンクのようなコンシューマを深く理解された企業と共同で取り組む場合には、ショッピングアドバイザーなど、よりパーソナライズされた機能を提供していくことになるでしょう。

(聞き手:菊地原博、構成:久川桃子、撮影:福田俊介)