元巨人ドラフト1位・辻内崇伸、いまだから語れる高校時代の真実

2015/8/3
野球の名門・大阪桐蔭高校時代、夏の甲子園に出場し、国内左腕として最速の156キロを記録した辻内崇伸。二回戦の藤代戦では当時大会タイ記録となる19奪三振をマークするなど、その剛腕を日本中に知らしめた。プロからの評価も非常に高く、巨人からドラフト1位指名を受けて入団。高卒では松井秀喜以来となる「契約金1億円」が大きな話題を集めた。しかし、将来のエース候補として期待されながらも、プロではけがに苦しみ、一軍で一度も登板の機会がないまま2013年に8年間の現役生活に幕を閉じた。現在は女子プロ野球・埼玉アストライアのコーチを務める辻内。彼にとって高校野球とは、そしてプロ野球とはどんなものだったのか。けがとの闘いを振り返ってもらいながら、引退後だからこそ語れるその思いを聞いた。  

尋常じゃない痛みの中でも連投

──巨人に入団後、けがで苦しまれたことは、よく知られていますが、最初の大きなけがは中学生の時だったそうですね。
辻内 はい。中学生でファーストから投手に転向したのですが、そのときに初めてけがをしました。左肘の靭帯あたりを壊して、半年くらい野球をできない時期がありましたね。それ以来、投手になってからは、ずっとけがが付きまといました。1年間を通して万全とは言えない体でしたね。
──高校時代にも連投が原因でけがをしたとのことですが、その点について聞かせてください。
2年生の夏に、一度だけ肩のけがをしました。大阪府大会で、準々決勝、準決勝、決勝と連投することがあったんです。準々決勝くらいから肩が痛かったのですが、我慢して投げ続けました。
試合前は、薬を飲んで、注射を打って、針を打って、アイシングをして……。いろんなことをしていました。とにかく痛みがひどくて、試合の不安よりもそっちが先にありました。マウンドで汗がブワーッと噴き出ていましたから。尋常じゃない痛みの中で投げていましたね。
その後、1カ月くらい投げられなくなりました。それほど重いけがだとは考えていなかったんですけれど。
──そんな状態でも、西谷(浩一)監督には肩の痛みについて話さなかったのでしょうか。
まあ……、言ってはいました。ただ、夏の大会、甲子園をかけた最後の試合ですから。監督からは、「そんなことで、お前降りるのか」と言われたというのが裏話で(笑)。ただ、それ以前にも3連投、4連投をしたことはありますし、肩を痛めてもノースロー調整で治っていました。だから、監督としても大丈夫だろうなと思っていたんでしょうね。
僕自身、あまり休むタイプではないと思っていましたし、高校時代に投げ込むことで肩が強くなった印象もあります。「投げろと言われたら投げる」というのが普通でした。
──いまのお話と、プロ入り後に経験したけがとは関係しているのでしょうか。
プロに入ってけがをしたというと、高校野球などの酷使が影響だと言う人もいますが、いろんな考え方があって、正解はないんだと思います。
僕はプロ2年目で左肘の靱帯を断裂し、手術をしましたが、これは中学生の時の古傷です。ただ、手術に至ったのは、プロに入ってからの影響ではないかと思っています。高校時代とはトレーニングの仕方が変わり、うまくコンディションをつくれなかったことや、一軍に入るチャンスを前にすると、それを逃したくないので痛みを隠して投げ続けたからです。キャンプに呼ばれると、投げなければいけないという責任も感じていましたし。
手術後は、どうしても肘をかばうようになり、肩と肘を交互に痛めるようになってしまいました。そこでは、過去の蓄積した疲労が影響していたかもしれませんね。後悔があるとすれば、そうなってしまう前に、きちんとトレーナーやコーチに相談する勇気があったなら、という点です。
辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)
1987年生まれ、奈良県出身。大阪桐蔭高卒業後、高校生ドラフト1巡目で巨人に入団。2013年に引退後、わかさ生活に入社し、女子プロ野球・埼玉アストライアのコーチを務める。

高校時代、周囲の期待が一番つらかった

──大阪桐蔭に入学した当初、甲子園に対してはどのようなイメージを持っていたのでしょうか。
大阪桐蔭に入学してしばらくは、甲子園なんて考えられなかったですね。僕は、地元・奈良県の公立高校と大阪桐蔭で悩んだ末に、親父のアドバイスで大阪桐蔭に決めました。でも、この厳しい環境の中で、3年間野球をやっていけるのだろうかという不安が大きかったんです。地元の高校に進学していれば、試合に出て、その先に甲子園を目指すイメージも沸いたと思いますが。
1年生の頃はランニングや草刈りなどサポート側の人間でしたし、監督から与えられた練習についていくだけで精いっぱいでした。2年生の春に中心メンバーとなってからも、「自分がちゃんとしなきゃ」という思いが1番にありました。その次の目標として、小さく甲子園が浮かんでいる感じでしたね。
──それでは、プロ野球選手という将来についても、意識していなかったのでしょうか。
プロを意識したのも、2年生になって150キロを超えるストレートを投げるようになり、マスコミに注目されてからです。でも、周りは騒いでいましたが、そんなにすごいことなのだろうかと思っていました。速さだけで騒がれていたので、「スピード出しただけで、プロに行けるのか」という感じです。すごいと言われても、居心地が悪かったです。
──巨人とオリックスからドラフト1位指名を受けた投手のお話としては、意外な印象を受けます。
でも、本当にそうですよ。打者でホームランをバンバン打っている選手は確実にプロに行けると思いますけれど、投手で球が速いだけでは厳しいですから。自信はなかったんです。
注目されるにつれて、いろいろ聞かれるようになりました。「150キロ投げましたね、甲子園行けますか」「プロのスカウトが来ていますけれど、どこの球団に行きたいですか」とか、そんなことばかり。でも、当時の僕は「どちらも行けるかわからないので……」と答えていたんですよ。
──どんどん高まる周囲の期待に、戸惑っていたのでしょうか。
はい。周りの期待が一番つらかったですね。
──それでは、巨人に入団する前も「プロで活躍できる」という思いは持てなかったのでしょうか。
そうですね。現実が見えてくると、夢は消えていくじゃないですか。僕も小学生の頃には夢だった「プロ野球選手」が、いつの間にか消えていきました。それが高校2年生になって、周りに評価されることで、「プロに行けるのかなあ」と考えるようになった感じですから。
入団直後も、「なんで自分がプロの舞台にいるんだろう?」と思うくらいでした。プロ入り後の生活に慣れてきた頃に、ようやく「活躍したいな」という気持ちに変わったんです。
もちろん、プロでは真剣に野球に取り組みました。けがをした後もリハビリを懸命にやって、自分の中で最後までやったという思いはあります。だから、活躍はできませんでしたが、プロ野球人生にほとんど悔いがないのだと思います。
引退する前までは、こうしたネガティブな面については、表立って言っていませんでしたね。まとまった形で話すのは、今回が初めてかもしれません。
──それでは、プロで活躍するために「もっと高校時代にこうしておけばよかった」ということはありますか。
自分に対して、もっと自信を持って試合で投げたかったですね。いつも自信なさげに投げていて、監督から怒られていました。同級生の中日・平田(良介)や、後輩の日本ハム・中田(翔)は自信たっぷりに打席に立ってホームランを打ち、守備ではファインプレーを見せていました。当時は、平田と中田がうらやましいなと思って、孤独感を感じていました。あのくらいの度胸を身につけたかった。
それはプロでも必要だったと思います。そういう気持ちが強ければ、トレーナーやコーチに自分の意思を伝えられていたはずですから。

高校球児は、3年間で燃え尽きてもいい

──高校野球では連投や過密な日程が問題となっていますが、辻内さんはどう考えていますか。
難しい問題ですけれど、高校野球では、投げたいだけ投げればいいと思います。全力でやるのが高校野球らしさじゃないでしょうか。そこで頑張りたい人は、燃え尽きればいいと思います。3年間の野球生活で、選手たちに後悔はしてほしくないですから。
──それによって、場合によっては肘や肩をけがするかもしれません。
個人的には、けがはどんなときも可能性があると思っています。もちろん、避けられるけがと、避けられないけがはあります。試合後のアイシングなど、ケアも必要です。ただ、賛否両論があるのはわかりますが、けがの問題を高校野球だけに向けるのは、良くないんじゃないかという思いがあります。高校で活躍したヤンキースのマー君(田中将大投手)も、いまけがをしていますし、プロになってからもついて回るものですから。
──それでは、プロを目指す高校球児にも同じメッセージを伝えますか。
そうですね。「いまを生きてください」と。
──興味深い答えですね。それでは、辻内さんがいま高校時代に戻ったとしても、同じように投げますか。
バンバン投げますね。先を見据えてもしょうがないですから。いま目の前にある一つひとつを乗り越えて、積み重ねていくほうがいいと思います。けがをしても、それをどうプラスに変えていけるかが大事ですし。
もし、「僕はプロに行くから投げない」と言う選手がいても、チームメイトからは仲間外れにされますよね。結局、投げるしかない状況もあると思います。
──それでは、球数制限やタイブレーク導入などの考え方については、どう思われますか。
これも難しい話ですが、球数制限をすると面白くないというか、選手が投げたくても投げられなくなりますよね。タイブレーク(※延長戦における制度。規定の回で同点だった場合、次の回からは走者を置いた状態から始めて、点を入りやすくする)を導入すると、ファンも離れるんじゃないでしょうか。それだと、高校野球ではなくなる気がします。
本当に人それぞれ考え方はありますが、僕はチームのみんなと甲子園に行き、夢の舞台で投げられて良かったという思いがあります。肩は消耗品とよく言いますが、消耗されるまで投げるという選択肢もあっていいんじゃないでしょうか。

甲子園の経験は大きな支え

──辻内さんにとって、甲子園での経験はどのようなものなのでしょうか。
僕にとっては大きな支えですね。甲子園がなければプロに入ることも、指導者になることもなかったですから。たくさんの出会いにも恵まれました。自分の中では、妥協せずに、根性を持って最後までやりきれました。野球から学ぶことが非常に多かったですね
──プロ野球と甲子園、どちらが大きな存在ですか。
もちろん、それぞれに得たものは違いますが、自分の人生に大きな影響を与えたのは、やはり甲子園ですね。
──女子プロ野球のコーチになるきっかけは、恩師の西谷監督だったそうですね。
はい。監督からコーチの話があった当初は、野球という仕事が頭にはなかったので、すぐに返事はしませんでした。ただ、DVDで初めて女子の試合を見たとき、高校野球と同じような全力プレーに心を打たれました。
不動産の仕事が決まりかけていたので非常に迷ったのですが、嫁に「野球を続けたほうがいいんじゃない?」と背中を押してもらいました。嫁は、僕が野球に携わって、外で汗を流している姿を見たいと言ってくれています。
──昨年の3月から埼玉アストライアのコーチとなりましたね。コーチとしてのお仕事はいかがですか。
普段は、朝7時30分から、12時30分くらいまで練習をしています。そこから少し休憩して、わかさ生活の社員としてスポンサー営業などをしています。朝は早いですが、もう慣れましたね。
女子はもちろん男子とパワーは違いますが、技術面は同じです。ただ歴史がまだ浅く、きちんと基礎を教えてもらっていない選手が多いので、基本を心がけています。
フォームはきれいですが、体の使い方や、トレーニング方法が不十分なので、その点を重点的に伝えています。
自分の経験はもちろんですが、お世話になった巨人のトレーニングコーチに電話で聞くなど、わからないことは勉強する日々ですね。
まだまだ女子プロ野球はマイナーなスポーツです。これから少しでも貢献できるように、頑張りたいと思っています。
(取材・文:菅原聖司、写真:是枝右恭)