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【山崎×開沼(3)】「フクシマ」の“脱魔術化”をいかに進めるか
NewsPicks編集部
石井 重成青森大学 准教授
開沼さんの「福島とデモクラシー」という問題提起には、「私たち一人ひとりはどう生きるのか」という個人に対する問いと、「国民的決定をいかにして成すのか」という社会に対する問いを包含しているように思います。 18世紀の政治家エドマンド・バークは、近代国家の議会の根底に流れる思想を「国民代表」と呼びました。各選挙区から送られてくる多数の大使たちが、地域利害の代弁者に終始することなく、総意の表れとして「国民的決定」を下すためには、個々の利益を合算するのではなく、自由な立場からの議論そのものであると主張しています。 けれども、この原理をそのまま現代に当てはめることはできません。 1つは「市民」の崩壊と呼ばれる現象です。バークの時代に「市民」といわれた人たちは、教養と財産をもつ有産階級であり、 「理性的」な議論を支えたのは古典教養主義的な教育とユーモアであり、有権者の数的制限でした。 市民権拡大による近代議会の崩壊を憂いた、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』は有名です。 2つ目は、行政の肥大化・専門化です。 自由主義的経済論や財産保護が主な関心であった当時の「夜警国家」と比較すると、現在の行政が担っている役割は比べものにならないほど肥大化し、専門化・高度化しています。 議会が行政の細部までコントロールすることは物理的に不可能になっています。 だとすれば、私たちはどのよう「国民的決定」を下すことができるのか。福島の問題はそういう問いを投げかけているように思えるのです。
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