当事者になる偶然と、当事者でいる意志について(3.11に寄せて)
情報と感情(ニューズピックス身辺雑記)
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今年も3.11を迎えます。
東日本大震災から13年。当時の中高生は30代に差し掛かり、当時20代だった若手は40代に差し掛かる。全員が13年分年を取りました。
当事者になるのは偶然でも、当事者でい続けるのは本当に難しい。毎年この日だけ思い出したように震災を言うのも白々しくて、ちょっとここで書くのもやや迷いましたが、いやそんなことどうでもいいじゃないかと。つべこべ言わず年に1日くらいは、誰のためでもなく自分のためにでも福島に想いを馳せ、当事者であり続けたい。
3.11の共通体験が少しずつ希薄になる中で、今回のトピックスは自分にとっての記憶と記録を接続する、なんというか自分のためかもしれない記述です。年末9歳の子どもとインドに行きました。帰国後も、子どもは日常に「インド」を見つけては、「あ、インド!」と伝えてきます。インド料理屋さんの前に飾ってある国旗、ガンジーの学習漫画。見つけたとき以外は、当然、恒常的に想い続けているわけではなさそうです。
でもそれでいいのだな、と思います。一度行ったことで、一度も行ったことがない状態より、「少しだけ当事者」になっている。場所も、人も、経験も、少しでも触ってさえいれば、きっとその人自身の幅や深さを増してくれるような気がしています。忘れていいこともある。忘れた方がいいこともある。それも一理。
他方、「当事者」の痛みや苦しみに、代わりに体験できない/ しない/ しなかったとしても、せめて思いを馳せたいですね。
311は私は体験せず私の家族が体験しました。あの日以来午後2時46分は毎年黙祷をしています。災害等、その人にとっては永遠に心に刻まれた物に対して謙虚でいたいですね