文系は不要か?【川上量生vs隠岐さや香】
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そもそも「分けるべきか融合すべきか」という議論があると思いますが、私はそれは2項対立にならないのではないかと思います。
もちろん今は文理融合をすることのメリットはとても大きいので、分けるべきではないという意見が多くなっていると思う。だけれど、メリットが大きいのは、これまで文理がきっちり分かれていたからだと思います。分かれているものを融合する時に、そこに新たなものが生まれる。でも、初めから分かれていないと、そこに融合の驚きや新鮮さは発生しない。だから、結局「分けて融合する」のを繰り返すのが必要で、今は文理融合が進むのだろうけれど、その後は文理とは違う別の軸での分け方が必要になるのだろう、と感じました。
注目のコメント
見てないのですが、今自分の若かりし頃を振り返ると、文系・理系に縛られない思考でいれたら良かったなぁ、と。文系か理系か選択を余儀なくされるプロセスって、ある意味自分の可能性にリミットかけるフレームワークでもあると思うんですよね。私はいわゆる国語や英語が得意で、数学は苦手という典型的な「文系」の道を歩いてきたわけですが、気がつくと社会人になって、毎日金融業界のエンジニアと働く仕事をしている自分がいます。人生文系、理系ってきっぱり分かれるもんじゃないし、ただの大学のちょっと時代遅れな仕組みなんだよ、と大学時代の自分に言いたい。
中学校の時に、担任から「お前は文系だ」といわれ、商業高校に進み、理系科目をまったくしてこなかった人間です。今環境学をしていて、理系やっておけばよかったなーと公開しています。
その点。隠岐先生が仰っているように、早期の段階で理系文系を分けるのはどうかという点には賛同しています。
皆さんが仰っている、別に分ける必要がないということはごもっともですが、
この論争の奥にある真の命題は「文系の軽視」であると思っています、当たり前ですが。哲学や文学など、この混とんとした社会に「生きる意味を考える」学問は理系ではなく、文系かなと思っています。またこれは、隠岐先生が仰っていたように学問の自由の権利に該当します。
また大学の存在意義も問われるところだと思いますし、「”経済社会で生きのびるための能力を身につける場」という大学の位置づけも個人的にはまだ腑に落ちていません。Humanityが欠落しているような印象をもってしまいました。