限界集落に移住した大学生の話 ~”関係性”の中で生きる~
コメント
注目のコメント
特に都市に住んでる方に読んで欲しいです。
中高でカトリック教育を受けて西洋的価値観を主に身につけ、今は院生として生物×データみたいなことをしていながらも、科学至上主義への疑問や神道・仏教をベースにした考え方にとても共感できます。要は「科学でいろいろ解決しようとすること」よりは「自然や周りの人や物に感謝する気持ちを忘れてしまっていること」が大問題ではないかなと思います。
福岡伸一先生と坂本龍一さんの対談本「音楽と生命」の中にもピュシスはロゴスで説明しきれないとの旨が述べられており、やればやるほどわからないのが自然だなという気がします。> 「例えば今私たちの目の前にある食材でも、それらをつくってくれた生産者の方、それにかかわる多くの人など、「自分一人だけで生きているわけではない」と気付くことができると思います」>
お書きになった文章は長いのに、他者の否定が一つもないのですね。他者の生き方が自分と違っても批判したり否定したりしない。
こうして私がNPでコメントできるのもNPというメディアを維持しバグを修正してくださる人たちがいるからこそ。お互い様の精神ですね。他者がいるから自分がいる。
学ぶことが多い記事でした。ありがとうございました。記事にありましたところのリアル出身者です。これまで聞いたお話が線でつながっていった気がしました。
長くなりますが好きなだけコメントさせてもらいます。
1)人と人との関係性の中で生きる
「自分一人だけで生きているわけではない」と気付けたことの幸運さですよね。
私はよくぼんやりと自分のいる空間を眺めて、目に映っているすべてのモノの背景にいる人たちを想像することがあります。自分が生きるにあたって多くの支えをしてもらっていると実感したら謙虚に生きられます。
死者との関係性の希薄化は、墓じまいや永代供養などにも現れていると感じます。先祖供養<管理の楽さです。実際お墓の掃除とかとても面倒ですからね。仏壇もない家も多いでしょう。家制度の崩壊による血縁の縛りが弱くなっているのも影響してそうです。
2)人と地域との関係性の中で生きる
生活(生業)のコミュニティが”カイシャ”になったのはもう仕方ないし、すでに地域愛や誇りの低下は起きつつあるけど、萃点=世代を超えて愛されるものを見つめ直して改めてコミュニティ作りをしようということでしょうか。
3)人と自然との関係性の中で生きる
日本でしか生まれない感受性の喪失は惜しいことです。
自然との相互扶助の感覚は、田舎育ちなので不思議と身につけて育ってきた気がします。必要な分だけ、取り尽くさない狩りつくさない、新芽が出るように一部は残す、欲しいなら大事にするという感じです。
あとこれは持論ですが、私は人の名前は世相を反映していると考えています。親世代が満たされていないものを子が得られるように願いを込めやすくなる。今最も多いと感じるのはまさに自然に関係したものです。
4)人と神との関係性の中で生きる
「感謝」の表裏一体で「恐れ(畏れ)」もあると個人的に思います。
科学が発達していない時代の地震、噴火、そのほか諸々の特殊な現象、人知を超えた不安なものに、人々は神という理由をつけて恐れたはずです。そして奉って敬った。
しかし、現代はすべて科学で説明がつき不安はなくなりました。恐れるものはありません。これはきっと死者に対しても似たことが言えると思います。
最後に。教育の当事者である子どもたちがどんな豊かさを望んでいるのか、聞いてみたいと思いました。