本当の「自立」の意味、知ってますか?
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注目のコメント
先日NHKの番組「当事者が研究」にも登場していた熊谷先生ですね。
https://www.nhk.jp/p/ts/8R2XN9L9RP/
前回の土偶といい、研究とはどういったものかを考えるには興味深い対談です。当事者の主観であるデータをいかにして研究用にされるのか、内部観察の概念にも関わって来る視点だと思います。
追記
障害者や健常者の2項対立で語る必要が無い当事者研究というのは目から鱗でした。自らに向き合うのはどちらも一緒で、その方法に困っているのは人類全員共通なのでは。また「表現が大事」と熊谷先生が言っていたように、他人でもフィジカルでもバーチャルでも対象を措定して観察、解釈、表現することは、自らを表現する上で良い練習になりそう。
それに近いことを私の絵画教室体験としてコメントしてました。ここでは「知る」ことが大事と言っているつもりです。知ることは幸せにつながる!
https://newspicks.com/news/8451080等身大の<わたし>を受け入れたとき、
世界が広がった。
「自己肯定」「自己受容」の大切さがそこかしこに叫ばれていますよね。それでも、この受け入れる作業が難しいと感じるのは“自己”という言葉から、自分の気持ちや行動だけの問題というイメージが付き纏っているからかもしれません。熊谷さんと哲学者の國分功一郎さんの著書で紹介されていたドゥルーズの「無人島論」。ざっくり言うと「無人島では自己が存在できない」ということなのですが、つまり“他者”がポイントとなるわけです。熊谷さんによると、自立のためには多くの「依存」先が必要。幼少期の壮絶なリハビリ体験から小児科医として活躍する現在までの熊谷さんの人生がきっと皆様へのヒントになるはずです。また今後は他者という言葉が指すのは人間だけとは限りません。AIやテクノロジーがどう人生に関わってくるのか?様々な他者がいる多様なこの世界について考えられたらと思います。
【配信後記】
「自立とは、依存しない事と言われているが、私はトイレに行く時も自分でできないし着替えられない。依存なしには生活が立ち行かない状態にあり、もし自立と依存が対義語なら私にとっては不可能なこと」という言葉から始まった依存の話の中で、熊谷先生が明かしてくれた“震災時にエレベータが止まり逃げ遅れそうになった”エピソード。先生にとって依存先はエレベータしかなかった一方で、健常者はエレベータと階段のどちらも選択できた。つまり健常者の方が依存先が多いと言え、「この社会は健常者にたくさん依存先を提供する方に偏っている」という話は、これまで全く気づかなかった見方でした。依存については考えてみれば、誰かが作ったものを購入するのもある種の依存であり、身体の維持において私たちは腸内細菌に頼りまくっているわけで「自立というのは依存先が多い状態の事」だとする熊谷さんの指摘を聞いて、自分の欠点や弱さを認められない状態は“人は様々なことに依存し、自分だけで生きてはいない”事を自覚していないが故に生じるものなのかもしれないと私は思うに至りました。
・排除型差別「あなたは違うからあっちいけ」同化型差別「私たちは同じでしょ、甘えないで」は学校教育で顕著・孤立と自立・障がい者は依存先が少なくなるが家族も同じ・幸せとは・共生と暴力・ジャストカルチャー
一人でも多くの方に今回の対談が届くことを願っております。初めましてこんにちは。
知的・発達・身体障がいに加え、過食症、てんかん、熱性痙攣、過呼吸など様々な困難を抱える現在11歳の子供を育てており、11年思考を重ね、
現時点では「共生」をテーマに日々を過ごしております。
私の中では、白黒はっきりする事象はこの世の中には無いのでは?と思ってます。人間は多種多様な生き物であり、何が黒で何が白かはその人に依存すると思っています。何か議論すべき事象が起きた場合、何故そこに至ったかが問題で、その環境などの背景を解す必要があるのではと現時点では考えております。
受け入れ、知り、解きほぐし、共生への道を共に歩む。
障がいある無し関係のない問題だと実感しております。
何事も黒白はっきりさせるよりも、相互のバランスを取ることがより良い共生への道ではないかと考えます。
何事もフェーズ毎のアプローチ、バランス、思考した上でのシンプル化が大事なように思います。
物事には理由がある。
みんなそれぞれに素晴らしい。
抽象的な話しですみません。
落合さんの抱くクエスチョンが私の思考の行き着く先々と似通っていて毎回聞いてて楽しいです。
いつもありがとうございます^ ^