突出した才能ありながら対人関係などで困難、「ギフテッド」の子供たちを支援へ…文科省
コメント
選択しているユーザー
ギフテッドの子らに限定すべきでない。ギフテッドの方々は、能力のアンバランスが激しいことが往々にしてあります。アンバランスは誰にでもありますが、全体値が高いということは、アンバランスの差も大変大きくなりがちです。
誰にでもあることですが、得意な部分にだけフォーカスを当てられるのは本当に辛いこと。苦手な部分を否定しようとする、克服させようとする昔ながらの日本人気質が、文面からうっすらと感じられます。
現在、公立校ではこういった子たちのための情緒固定学級の設置が目指されていますが、すでに設置されている中学校であっても、ギフテッドのような高IQ生徒に対する支援指導は遅れている現状にあります。対処方法がわからないので。なので、多くの高IQ生徒たちは自宅学習を余儀なくされています。
念のためですが、学校現場から放置されているわけではなく、教師の指導方針と家庭や本人の意向が噛み合わず、すれ違いになることによって、結果的にその選択になることが多いように感じます。
学校に子どもが合わせるのではなく、学校が子どもに合わせる教育へ、という方針から法律も改定されて10年以上経つというのに、残念でしかありません。
それでも遅々としつつも進んでいることを評価したほうがよいのでしょうか。変化することの難しさを痛感します。
社会がもっと広く、自らに合った方法を多方面に選択できるようになるといいですね。
注目のコメント
支援するか否かを才能があるか否かで判断すること自体がおかしいでしょ。それこそ悪しきメリトクラシー。
okumuraさんのご指摘を受けましたが、何の理解が間違っているのかわかりませんでした。
私は支援をすべきではないと言っているのではなく、本来生きづらさを感じる人すべてに手を差し伸べるべきで、支援の理由が「突出した才能をもつ子供」であることに違和感を感じているというものです。才能があるから支援するのではなく、
困っているから支援する。
彼らの困りごとは
自分の能力を伸ばすチャンスがないこと
秀でた能力に比べ社会適応がとても難しいこと
だからただ才能を伸ばすだけでなく、
彼らが先々生きていくスキルをつけてあげることも必要
(そこを社会全体でサポートするか否かについては議論の余地ありで)
いずれにせよ、彼ら彼女らに寄り添うこと