あいちトリエンナーレの補助金、不交付の方針に芸術家らが危機感「文化発信力にとどめを刺された」
コメント
選択しているユーザー
「スポンサーモデルを基本的な基盤として芸術をやる」という文脈の中に、これまで芸術が甘んじてきた側面はたしかにあるだろうと思う。
自ら資金を得る努力、知ってもらう努力、続ける工夫を、どれだけやってきたかと問われれば、まだまだ。大学や助成金、補助金、といった鳥籠に安住せず、自ら表現の自由を確保できるモデルをつくる努力は、今後の芸術に携わる人間にとって重要になると思う。
一方で、芸術、または一部の学問もそうだが、今やっていることの有用性を、現代の経済的コストパフォーマンスや、価値基準では保障できない側面がある。こうしたものについては、社会の中にある一定の余白(遊び)として意図的に制度設計し、保障していく姿勢も必要。ここに、文化庁の役割の一つがある。(ただそれが、果たして助成金モデルである必要があるかはもちろん検討すべきだけれど)
よくわからないもの、説明のつかないものが存在できるような社会であることは、ここにいる人の関心に寄せるならば、イノベーションの源泉としても重要なはずで、だからこそ「自由な表現がしたいなら私費でやればいい」という批判は芸術が持つそうした役割を踏まえていないという意味で、同意しない。
いずれにせよ、この決定に対する反応をみるに、日本の美術教育が芸術をちゃんと教えて来なかったことのツケが回ってきているようにも感じた。学校における義務教育の美術図工教育の役割はアーティスト養成ではなく、鑑賞者としての市民育成のはずだから。多くの人が芸術を他人事に感じるのも、余白の価値と結びつけられないのも無理はない。
自分はいまやってる美術教育のプロジェクトを粛々と進めてこうした状況を長期的に変えていけるよう尽力したい。
注目のコメント
芸術なんてもともとパトロンがいてお金もらってやってたわけで、パトロンに忖度するのは当たり前なのでは。
政府をパトロンにしたければ政府に忖度し、大富豪をパトロンにしたければ大富豪に忖度する。
慰安婦やりたかったら、朝日新聞や韓国政府からお金出してもらえばよいんですよ。国の象徴たる天皇の肖像燃やしといて、日本政府に金出せって、そりゃおかしいでしょ。この前例を作ることが、今後どれだけの文化発信に影を落とすのか。今後、補助金を得られるために、アーティストは政府や社会に忖度し続けなくてはならない。
また、抗議、武力に対して折れてしまうことも、悪例となってしまう。
アートとは世の中の問題を写し取る鏡だと思う。
まさに今回のことが、日本の息苦しさ、”表現の不自由”を伝えるきっかけになってしまった。昭和天皇の写真を燃やすなんて、国が国なら、一族親類共々拷問を受けた挙句に死刑ですよ。政府から咎めを受けなかっただけでもありがたいと思うべきだ。批判コメントしてる人も、ちょっと過剰反応だと思います。
元凶となった津田氏なら、8000万程度のお金は払えるのでは?責任とって私費から払ったらどうですか。
追記
反論コメントがありましたので、返信します。後出しジャンケンの感は確かにありますが、国家元首を辱め、国の品位を貶める展示に公費を投じないことが、芸術への検閲ありきの国家体制に繋がる、というのは議論の飛躍です。
どのような国家体制を望むか、ではなく、該当の展示に公費助成をすることが適切であったか、という観点からのコメントです。
国家元首、象徴である天皇陛下の写真を燃やしたり、ねつ造された慰安婦像や特攻隊を罵る表現など、我々の父祖を侮辱する展示に、多くの国民が不快感を示し、表現の自由を逸脱している、芸術に値しないと感じています。
文化庁からの交付金の原資は、言うまでもなく、私たちの税金です。言うなればパトロンは、主権を持つ国民ということになります。国家を侮辱し、恥辱する表現に税金が投入されることに、納得がいかない人は私を含め多いと思います。公益に資する内容とも思いませんし、むしろ、外交的に日本が不利益を被るおそれがあります。国民が少なからず反対している表現をしたいなら、やりたい人たちで資金を出してやればよいと思います。展示会の再開自体に反対しているわけではありません。