【ハーバードの東洋哲学】「自分中心」から脱却する──荘子と〈物化〉
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荘子が考える「自発性」は、生まれながらに持つ性質ではなく、意識的な「技」の訓練の先にある無意識的な「道」に従うこと…
脳科学的には、
・脳は、生まれながらの遺伝子より、経験で特徴付けられるので、「自発性」も後天的なもの
・「技」をハウツーとして知っても短期記憶になるだけで、訓練によって長期的な手続き記憶にすることで、無意識の「道」となる
という感じかな。「自分のあり方そのものを鍛える」、「世界のなかでの自分のあり方そのものを鍛える」、個の時代になってきたからこそ、孔子の教えが再度見直され、より必要となってきているのだと思います。
本連載は、中世ヨーロッパにおけるイスラム経由の古代ギリシャの再発見を下敷きにしたような、現代アメリカにおける古代中国思想を発見するための戦略を取っていたのかなと、最終回にして思いました。
陰陽はデモクリトスとエピキュロスの原子論、老子や荘子はプラトンとアリストテレスの思考対象の違いといったように、中国思想を米国人がプラグマティックに使うための学び方として、ヨーロッパのギリシャ思想の取り込み方を範としているのでは。
別途HUAWEIの特集で東洋資本主義の背景として道教が言及されていましたが、マルクスがエピキュロスを元に唯物論的アプローチを資本論で取ったような、アメリカが陰陽思想を元にした新しい資本主義を構築しようとしているとまでは言えまいか?
どちらにしても、現代はイデオロギーの二項対立とその選択から、より本質的な世界認識や自然認識まで遡った生きるための思想を再構築しなければならないほど袋小路に陥っているのかも。
ナショナリズムって言わば国家的な引きこもりで、自信の無さの裏返しですから、ひとりひとりが自国の書を持って街に出てソクラテスのように謙虚に対話する世界市民になるのが良さそう。
しかし最近はコスモポリタンを鼻持ちならない意識高い系エリート層のように捉える傾向が有りますが、それは対話の作法を知らずにディベートの勝ち方や詭弁を弄するロジックといった手段ばかり気にしているからで、そこは西洋的なアプローチを改めて古代の中国や日本の対話のやり方を真似てみるのもいかがでしょうかね。
東洋人が西洋人の対話の方法を取っているのは、昔からスゴい違和感が有りました。多分そんなところに突破口があるんじゃないかなと思ってます。