成功するためには「人を疑うことはコスト」と知れ。
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本当これ。
この記事にもあるけど、グーグルはスーパー性善説で動いているのは事実(かつての同僚尾原っちは「ハイパー性善説」と言っているようだが)。
グーグルのあとで働いたツイッターも基本はグーグルと同じカルチャーで、スーパー性善説で物事が動いていた。
さて、この度、私は肩書からわかるように、典型的日本の大企業であえて働いているのだが、これがもう、全てが人を疑うことから物事が動いている。とにかくそこのネガティブチェックのために、貴重な人の時間がどんどんどんどん奪われていく。
で、「ああ、これはやっぱり無理かも」と早くもくじけているのが今w
性悪説で発生するかどうか分からないコストを回避するためにコストを使うのと、性善説でやってみて何か起こったときにコストを支払って損するのと、最終的なコストはどっちが大きいか、ということだ。
これは、プロジェクトとかそういう話のレベルではなく、例えば扶養家族の認定とかも、執拗に配偶者の直近三ヶ月の給与明細を請求したりするのは、日本企業くらいで、グーグルとかツイッターでは、そこは社員を信じるとこから入る。
ここが根本的に変わらないと、日本企業はもう本当におしまいかもしれませんね...。
追記:若干誤解を生んでいるようですが、私はグーグルに代表される性善説マンセーというわけでなく、リスクの規模とその発生確率に基づき、費用(コスト)の比較考量に基づき判断すべき、という立場です。元々、建築畑出身ということもあり「石橋を叩いて渡る」ことの意義は分かっているつもりです。しかし、その比較考量もなしに、なし崩し的に性悪説で一事が万事動いている傾向があることに問題提起をしているつもりです。「己より遥かに優れし人物を集める術を心得しもの、ここに眠る」とのカーネギーの言葉。結局は、人を信じて託する勇気を持つ、ということとのこと。
所詮一人でできることには限界があります。
ビジネスは、いかに色々な英知を結集できるかが、勝負です。信じることと任せることは違うだろうよ。
かつて昔の日本の村社会では、鍵をかける家はほとんどなかった。それは村人が信頼し合っていたから?いいえ、違います。もし、盗みに入ったりしたら村から追放(場合によってリンチ)されることが明らかだったからです。信じる信じないというウェットな話ではありません。