【松島倫明】ニュース・ポルノに浸るのはやめよ
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最近、SNSの炎上や一部のネットニュースやまとめ記事を見ていると、苦労して批判すべき点を探し、扇情的な見出しが立つようにほじくり返して、実際のアイデアには目もくれていないような印象を持ちます。私自身、毎日決められた大きさの紙面を埋めなくてはならない新聞記者をやっていたので人ごとではなくて、平和に見えた日常があっても、何かしらのケチをつけて問題提起をしていたことはあります。
それは当たり前のことでありますが、とても残念なことでもあります。メディアの視聴率を上げて、メデイアを存続させるために、世の中のポジティブな面や穏やかな面が犠牲になってしまっては、生きている上でニュースを必要とするのではなく、ニュースのために生かされているような気すらしてくるからです。
ただ、もちろん人は、刺激的な見出しやスキャンダラスなトピックに反応するし、人の不幸を舐めながらなんとかくさくさした日常をやりすごそうとする。それはわかります。
要は100万部を諦めて10万部を目指して質の良いクリティカルなものを載せられるメディアが一定の存在感をしめすこと、そこから民度を底上げしていくことが必要なのであって、そういう意味でとても心強い記事でした。実は私は、元通信社記者。企画を上げると当時、デスクが「読者は、読みたがっていないよ」と諭されることがありました。
独立して各種雑誌に書き始めたら、駅売り/本屋売り勝負の編集者さんらは、はるかに明快でした。「うちの読者の男女比、職業はこうで、この話題にはこういう関心を示しているので、取材してみてください」。
そこで、通信社のデスクは、何の根拠があって「読者は」などと言っているのだろう、と初めて思いました。通信社は、読者データは、持っていないのです。
ニュース・ポルノは、「読者/視聴者はね〜」というステレオタイプな想定から生まれると思います。生身の読者、視聴者のことをもっともっと考えて、固定観念にとらわれない記事がもっとあっていいと思います。「ニュースは見るな」
自分の中に軸がないと、情報に影響を受けて、右往左往してしまう。
こうしたことはあわただしい日常ではありがちです。
「アイデアのインパクトとメディアのスピードの関係性」の図は、受け手としての見るだけでなく、メディアやSNSなどを通じた情報の発信者としても、どのようなことを発信しているかを振り返るのに役立つと思いました。
実際には、「スピード」にも「インパクト」にも、それぞれの存在意義があると思います。
「情報が氾濫(はんらん)する時代において、究極のラグジュアリーとは意味と文脈だ」
情報の総量が増える中で、こういう思想があるかどうかは、メディアにとってより大切になっていると思います。
これは、個人にとっても同様のはず。
松島さんのWIRED編集長就任時のエピソードが読めて、嬉しい記事。
「ニュース・ピックスに浸るのはやめよ」かと、一瞬疑った朝でした。