M-1上沼審査は的外れ!?~お笑いもビッグデータで評価できる時代~(鈴木祐司)
コメント
注目のコメント
面白い。お笑いとは何かという事を示す結果になっていると思う。
確かに霜降り明星は前半とっつきにくいネタで、テレビで観ているとだれてきてしまう。ライブで観ていても、恐らく同様の印象はあっただろうが、現場のお客はチャンネルを変える訳にはいかないので、なんとか楽しもうと思い食らいついてしまう。
審査員の松本人志は「なんかねぇ、前半は(雰囲気が)全体的に重かったやないですか。でも後半みんながチームプレーみたいな感じで漫才を盛り上げてくれてるのが…もうちょっと俺、おっさんやから泣きそうになってるわ。ごめんなさいね」と講評しているように、恐らく現場では会場の一体感のようなものが生まれていて、それが単にネタそのものを超えた評価に繋がっていったのだろう。
この様に、「お笑い」とは、単にネタの台本のクオリティや演者の能力だけではなく、ある種の観客との関係性、緊張感のようなものが重要な要素を占めている。
例えば、観客のない漫才のネタ動画などを観ていると、同じ内容であっても何か感情移入できず、シュールな現場を想像してしまう。
M-1の審査員を一般客にすべきという意見があるが、島田紳助の意志により松本人志がプロによる審査に思い入れがあるのは、成果を残した先輩達が、自分の名前でリスクをとってお笑いという芸術に点数をつけるという行為を真剣に行っているという審査側の緊張感が、お笑いにとって重要な要素として加わっているからこそ、M-1ならではのエンターテイメントとして成立しているのだと思う。
お笑いとは、常にウケなくてスベってしまうという可能性との戦いであり、その意味でお笑い芸人は不確実性と戦い続ける経営者である。(その意味において、和牛は常に違うネタで挑んでいて、その点は凄すぎる)
そして、スベった時に恥をかくリスクを常に負っているからこそ、緊張感が生まれ、面白いと思える。そうでない場合も、擬似的に同様な感覚を体験している。それが、画面のみでの経験や、お客の有無、プロ審査員の有無で変化する。
非吉本の女性漫才師として現実の地位を築き上げた数少ない人物である上沼氏が、今回を最後に審査員を降りるのは残念だが、審査員の新陳代謝も多少はあるものだろう。とろサーモン久保田の発言が炎上してことも、このイベントが注目されていることの証だろう。
来年も楽しみだ。なにわの天才、上沼さんの真骨頂、金持ちネタ語録はっときますね。
「年末に実家でゆっくり過ごすってのが私の積年の夢なんです。一度でいいからやってみたい。だって無理なんですよ毎年毎年ユーミンさん、サザンの桑田さん、松田聖子さんが貸してくれ貸してくれいうて実家を使うんです、大阪城ホール」
「息子が受験の時はねえ…よう作りました鍋焼きうどん。まあ一般的なもんですアワビ、イセエビ、松阪牛ぐらいしか入れないんですけどねうちは。でも失敗やった…息子の部屋に届けるまでにうどん全部のびちゃったんです。うち、124階建てなんですよ」
「今…悩んでるんです。うちねえ、庭が広いでしょう。いつも大体庭師の方4500人ぐらいお願いして手入れしてるんですけど、それでも仕切れない。奥の方が樹海みたいになってしまったんです。ゴリラが出たんですよ。怖くて。でもよく見たら南光の奥さん」
「日本の個人資産の32%は上沼家のものなんです」
…ただのオバハンじゃないですよ。