人はなぜラーメン二郎を食べるのか〜美味い不味いが理由じゃなかった
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二郎と登山は、似ている。
そこに二郎があり、山がある。
己との闘いであり、挑戦の象徴。
狭い赤いカウンターに同志達と立ち向かうときの高揚感。
齢とともに攻めのコールができるかどうかのせめぎ合い。
増すか増さぬか。残すか食べきるか。
記事にもある通り、二郎を食べれてる(食べたいと思えている)ことは、ある意味「健康」である事の証でもある。体調が悪いと喰えたものではない。まぁ喰うと体調悪くなりますが。。
二郎と人生に問いかけてはいけないのは「美味いのか」と「幸せなのか」。疑問を持つ事ではない。そこに二郎があり、そこに人生がある。それでいい。私の二郎を、私の人生を、人には押し付けない。ただ愉しむのみ。
何が言いたいか。
ただ、今すぐにでも、二郎を食べたい。
いつか来るお別れの時(歳)まで。
注目のコメント
凄いなぁこの記事。ラーメン二郎を語る口調が哲学的というか宗教というか。こういうファンがいるのは強いです。私は年に1回二郎を食べるかどうかなのでこの気持ちまでは理解できませんが、同じ食品を扱うメーカーとしてこの気持ちには共感します。久々に二郎に行ってみたくなりましたね。笑
先日、久々に品川の二郎にお邪魔した。そして、それをFBにポストした。これは、冷静に言えば「おれ、こんな危ないことしてるんだぜ」という、男子中学生的な動機がなかったかと言えば否定はできない。
しかし、それに対してある方が「家族は自分が二郎を食べることを自傷行為と言います」というコメントをして頂き、あまりにも絶妙な言葉のチョイスに唸ることができたので、行動してよかったなあ、と思った次第でした