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リーマン危機10年 信認危機、未経験の事態

日本経済新聞
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  • Capital Partners Securities Co., Ltd. Chairman of the board

    明日がリーマンショック10周年。いよいよ真打ち登場。実は1983年3月30日にNYから出張中のジョンに赤坂「津山」で採用面談を受けた。精悍な切れ者と印象。後にマック・ザ・ナイフと呼ばれたのも頷ける。私は32歳、ジョンは38歳。その5ヶ月後に私は野村證券を退職してモルガン・スタンレー東京駐在員事務所に入社する。ジョンは度々東京に来た。私が幹事の箱根社内旅行でソフトボールに興じた。その後トップまで上り詰めたが、一時CSFirstBostonのCEOに転じた。後にモルガン・スタンレーに復帰してリーマンショックを乗り切った。80年代に三菱銀行のトレーニーをNY本社で良く見かけた
    。モルガンと三菱との関係は深い。元モルガン・スタンレーの日本代表のデービッド・フィリップス氏の奥さんが岩崎家の出身だったことを知る人は少ないはずだ。文中のシティCEOのパンディット氏はインドの中部の田舎出身。苦学してコロンビアを出てモルガン・スタンレーの資本市場部の転社担当で入社してきた。当時CBは二流企業が発行するので米国で売れない。頻繁に電話してきて新発のCBの販売を依頼してきた。ある時金融会社のCCCのCBを売ってくれという。シェアソンリーマンを首になったサンディ・ワイルが零細なCCCで漸く仕事がみつかったのだ。1億ドルのCB発行に関してパンディットの依頼を受けて半分東京で販売し見事に成功する。パンディットはワイル氏の信頼を勝ち取った。これをきっかけに後のワイル氏の成功とパンディットのシティCEOへと繋がっていったと思う。ティム・ガイトナー元NY連銀総裁、元財務長官は財務省から赤坂の米国大使館に赴任して米国系金融機関の窓口担当でした。ティムは当時は20代後半。財務長官まで上り詰めるとは予想だにしていませんでした。日本に関係する人々がリーマンショックを乗り切ったことは意義深い限りです。


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