差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ
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「生きる価値がなく、殺されてもよい人間がいる」という考え方と、「そういった人たちを殺す権利が、他ならぬ自分にある」という考え方は、区別しなければならないと思う。
植松被告の考えを探る上で忘れられがちなのが、後者だ。
つまり私の疑問は、「なぜあなた個人に、殺されていい人間を判別する権限と、殺人を実行する権利があるのですか?」ということだ。
思うに、植松被告は、理屈はどうあれ、殺人を楽しんだのだ。
自らが嫌悪するタイプの人間を殺すことに、喜びをおぼえた。
酒鬼薔薇事件のように、射精には至らなかったとしても、一種の快楽殺人ではあったのだ。
そうでなければ、「安楽死させるべきだ」と主張しながら、刃物で殺したりはしないはずだ。
ただ、植松被告を改心させることがあるとすれば、それは理論や通り一遍の倫理ではないとも思う。
理屈でいろいろ言っても、植松被告は考えを変えない。
「罪と罰」のラスコーリニコフを出頭に至らしめたのが、ソーニャの献身的な愛であったように、植松被告にも理屈を超えた何がか必要なのだと思う。
誰の言葉か失念したが、
「狂人とは、理性以外のものを失った人のことだ」
という名言がある。
植松被告の理路整然とした主張を見るにつけ、この言葉がまさにふさわしいと思う。