「自立」とは、社会の中に「依存」先を増やすこと ──逆説から生まれた「当事者研究」が導くダイバーシティーの未来
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注目のコメント
またまた昔話しです
むかしむかし、障害者施設で働いてるときヘルパーさんを常時入れながら1人暮らししてる利用者さんがいました(うちの街には結構いました)
自分で動くことはできなくても生活している姿を当時は、すごいなー、サービスが充実してるからかなーくらいにしか感じなかった
そして今の病院での仕事をしだして、1人暮らしだから自分でできないと生活できないという患者さんが多くいる現実を知るにつれ、自立の意味、利用者さんのしている生活に対する考え方が変わってきました
自立=1人でできる、これは間違ってないです
でも、1人でできるの意味が違う
能力的にできるかではなく、「意思としてできるか」
物理的にも身体的にもできないことはあっても、自分の想いを伝え実現できるようにしていけるのなら、それも自立なんだろうなと
熊谷先生は以前から、自立=依存先を増やすこととおっしゃってました。自分の感じたことを言語化してくださって、とても
スッキリ!
でも、依存ってけっこう難しい
自分が自分を受け止めていないとただ単に頼む甘えるになりかねない
無条件に受け止めてくれる人もいるけれど
常に依存したいのではないけれど
アスペルガーの僕的感覚で言うと、気軽に困ったが言えないと極限の困ったになってますます言えない感
気軽に困って、気軽に助け合える感じだと助かります(すでに依存)
そういうことで僕の自立はまだまだ先になりそうですw
度々の長文、失礼しました依存先を増やすということは、障害者だけに留まらず、いじめに遭っている人たちなどにも有効だと思います。
いじめで自殺する子供たちは、学校と家庭しか社会がなく、そこでの生活が辛いと日々の大部分が辛いことになってしまいます。
しかし、他にも沢山の依存先があれば、辛いことばかりではなく、楽しい環境やワクワクさせられる環境もあります。
個々人が選択肢を広く持つことも大事ですが、社会にも多くの選択肢を受容し提供する器が必要です。