【真山 仁】記者の使命と報道の限界
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日本の災害報道の写真を見て、あ、きれいな、整理整頓しているな、秩序があって立派な社会だなとよく思う。
こんな言い方では非常に不謹慎だろうが、
いくら死者何名といっても死んでいる人の写真はないし、ただただ整然としている倒壊したビルがあり、惨めでもなんでもない。
読売新聞などの日本の新聞社はそのように報道しているから、錯覚したかもしれない。
現場の記者は死んでいる人の惨めさが見ている。ただ報道してはいけないのだ。
ではなぜ本当の惨状を報道してはいけないのか?
私は中国にいる。
災害報道もする。死んだ方を様子を報道したことがない。
ディスクから人民がいかに自助努力で自然災害と戦っているか、いかにその中から英雄のような方が生まれたか、そのひとはまた中国共産党の党員であり、党の幹部である。自然災害の報道より共産党を褒める記事を書くことが責務である。
これでは本当の災害報道ではなく、ただ社会の秩序などを主張するPRだけではないか。
中国では災害報道にはいろいろ制限があり、日本も然り。
いつそこから脱却できるのだろうか。事実の伝え方にはいろいろあることがわかった。
事実をそのまま「生」で伝えるのではなく、フィクションにすることによって、かえって中心にある真実を伝えることができる。それが小説の力。
あまりにも悲惨な現場であった場合、それを直接的に伝えることが憚られることがある。でも、伝えなければならない。伝えたい。
そういう時には、小説というフィクションの世界を通じて、伝えるという方法がある。なるほどなあ。中学校の頃からの友人こそ、「真の友」と言うのでしょうか。
彼の意見を聞き、真山さんが新聞社で延長して過ごした最後の1年は、真山さんにとって非常に有意義だったに違いないだろうと、記事を読んで思いました。
また文中では「津波の悲惨を書けない記者が多かった」とありますが、私が以前アウシュビッツ収容所に行った時に写真を撮る気がまったく起きなかったのと、(程度の差はあれど)同じような感覚だったのではと想像します。
日本を襲った未曾有の大災害、東日本大震災。
1番苦しかったのは被災に遭われた方々なのは言うまでもありませんが、当時そこに取材に行かれた方々も本当に辛かったでしょうね。
ニュースを見る時、「報道されている内容」だけではなく、「報道する側の人の心」も想像できるようになると、その出来事をより深く理解できるのではないでしょうか。