【落合陽一 徹底解説・後編】「サピエンス全史」続編から見える日本の勝ち筋
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注目のコメント
以下、記事をヒントとしたメモ書き:
① 「僕たちは何も、二番煎じのタイムマシン経営をする必要ありません。ただ、「自分たちのコンテクストの半分はオリジナリティが西洋にはない」ことを強く認識することが重要なのです。その理解はサービスデザインや社会デザインにとって大きな意味を持つことになるでしょう。」(記事引用)
サードプレイスもオルデンバーグを中心とした西洋型の論(交流型およびそれと対抗するマイプレイス型)ではとらえられない日本的サードプレイスがあり(ハイブリッド型仮説)、日本社会は、ここから創発的なイノベーションが起きる可能性が大きい。
② 「それは人間(個人)が克服されない限り、大きな変化が起こった、個人が「負けた」と彼らは思わないからです。一元的にしかシンギュラリティを捉えられない西洋世界に対し、東洋世界に生きる我々は、要素別にシンギュラリティを捉えることができます。これは決定的に重要な点です。」(記事引用)
もともと仏教は個人ではなく分人(平野 啓一郎さんの論)を想定し、さらにいえば、個人などないと説く。強固な個人に執着しない文化は、テクノロジーとの親和性が高い。
③ 「そういった意味でこれからのコンピューター社会における両義性や多様性理解が日本社会では進みやすいのではないか、その立ち戻るきっかけになる本として読むと、大きな含蓄が得られるかもしれません。」(記事引用)
日本は西洋の二項対立型の社会ではなく、二項同体(さらには多項同体)の両義性、多義性を前提としている。ここから日本的編集力が発揮しれ、ユニークな価値創造ができる。肝心のホモデウス自体未読なので落合さんの論説に対しては特にコメントしないのですが(言葉尻の揚げ足とりになりそうで)
ただ、ハラリの「西洋意識し過ぎ感」はサピエンス全史読みながらずっと気になってました。
なんとなく、歴史学者が陥りがちなループなのかな、が僕の結論。
その辺、語彙力ない形で恐縮ですがnoteに書きました。
21世紀以降はキリスト・ユダヤに仏教やヒンドゥー入れてこうぜ、と薄々感じていた話|note(ノート)
https://note.mu/zrnnhtb/n/n153d0f8fc2ee坂口安吾の「日本文化私観」がふと頭をよぎり、読み直してみました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html
読み返して頭をよぎった原因を考えると、落合様の「失われた東洋」という言葉と坂口安吾の主張が食い違っているなと思ったからだと分かりました。
坂口安吾の作品は個人的には面白いと思うのでぜひ興味があれば読んでみて下さい。
追記
自分の「主張が食い違っているな」のところに違和感。
安吾は「日本文化私観」でツギハギの文化の上に乗っている日本人そのものが日本人の文化を産み出すという主張と、実質は常に机上の論理を揺るがすからこそ実質を大切にすべきという主張を行っている。(他の論点もあるが、気になる人は原文にあたって下さい。すみません。)
落合様のこの記事の主張とは食い違っているとは言えないと思った。
関係あるなと思ったのだけどなあ。