なぜ富は不平等に分配されるのか?
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コトラーを始めとする経営学やマーケティングの思想家は、社会課題の解決、社会価値の追求を強調する流れになってきています。
経営戦略の大家ヘンリー・ミンツバーグは最新刊は『私たちはどこまで資本主義に従うのか』、競争戦略の大家マイケル・E・ポーターはCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)というコンセプトを提唱。
コトラーの思想の深さは、大学時代に「グレート・ブックス」運動への参加、フリードマンの元で学んだ経験が背景にあるのですね。
やっぱり、幅広い教養があるから、深い思想やビジョンを打ち出せるのだと再確認。
日経BPクラシックスで、経済古典はまとめて読み込む時間をつくろうと思います。
http://amzn.to/2t4hSAb「彼の考え方をよく表しているのが、妻のローズとの共著『選択の自由』でしょう。そこで彼らは『経済的自由とは、民主主義の基盤にもなり得る』と説いています。『選択する自由』『使用する自由』『財産を私有できる自由』といった核心から成る『経済的自由』を制限すれば、『言論の自由』や『報道の自由』といった民主主義的自由まで影響が及ぶのである、という主張です。」(記事引用)
コトラーはフリードマンの自由主義とは、「自由競争=選択肢を増やす」というものであったと整理している。選択できる自由とは何だろう。自由は野放しではなく、規範による縛りを必要とする。あるいは、自由な選択の前提となる理念(実現したい夢や理想)がないと、そもそも選択を躊躇したり、袋小路に入ったりする可能性がある。そして自由に選択した結果には責任が伴う。自己責任だけでなく、他者への責任も含めないと、社会という公共が成り立たない。
ちょうど大学院のゼミで、「主体的選択と受容的選択」というテーマについて数名で議論していたので、コトラーの記事に注目した。特に、「子どもの頃から社会の貧困や格差に関心があり、また、なぜここまでに富が不平等に分配されるのかという疑問を持っていました。」と語るコトラーが、フリードマンに傾斜していくプロセスが興味深く、いかにも米国社会らしいとも感じた。しかし米国の伝統社会は同時に、個人の自由と真逆の地域コミュニティの支えを維持していた。そうした良質なコミュニティが崩壊していったのが、新自由主義にシフトした1980年代以降の米国のもうひとつの姿でもある。