「トップレスで日光浴する権利を」 半裸の女性らがデモ
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トップレスが普通になれば、一番困るの女性です。
女性側から言うと、胸は其なりの下着を付け服を着てしまえば、何とでも誤魔化せる物です。
たいした形や大きさで無くとも、隠しているから有り難がって貰える。
脚のように、ヤレ細いだの、美脚だの…散々男性に言われるように、胸もシビアな品評の対象となります。
「ブス・大根足・貧乳・垂れ乳…」
隠しておきましょうね。なんかエロネタ=大場と勘違いされれている感が若干ありますが・・・。
これは動物行動学でもエロネタでもなく、どちらかと言えば被服学の世界ですね。この辺りは専門じゃないのであまり詳しくないです。
なぜ人が服を着て身体を隠すのか、なぜ恥ずかしいと思い、公共の場で脱ぐことを社会的に非常識だという考え方が存在するのか。
そういうカルチャーが成立した動物行動学的な意味(みだりに性的なシグナルを発しないようにして社会の安定を重視する)もあるでしょうが、かなり文化に依存しています。
被服学の中で被服の起源を羞恥心とする説があり、羞恥心は生得的というよりも社会的に獲得したと考えるのが一般的です。
身体と羞恥心の専門家であるハンス・ペーター・デュルやデズモンド・モリスによれば、人は社会に強く依存して生きる動物で、協調協力体制を崩しかねない異性の取り合いを限定化するために、性的刺激を管理するという目的で衣服が導入され、集団に所属しながら裸体をさらした人は、「自己イメージの危機を知らせる警報装置」として羞恥心が発動されるとしました。
裸で過ごす部族では、成人した男性が若い女性をじろじろ見ると追放される掟があるそうです。徐々に服を着る習慣が導入されると、隠された部分から羞恥心を感じるようになり、つまり、身体への羞恥は衣服で覆うことによって生じているということができます。
かと言って、脱衣がすべからくはずかしいわけでもなく、周囲の他者の視線のあり方が圧倒的に重要な意味をもちます。例えば、産婦人科医の男性医師が「○○さんはスタイルがいい」と言ってしまった一言が、女性患者に羞恥心や屈辱感を湧き上がらせたりします。
驚くことに、肌見せファッションに対する批判を90年代以降の雑誌記事のなかで検索すると、そのほとんどは男性週刊誌によるものです。男性にとって、女性のファッションは男性目線を目的にしたものというイメージが強く、そうした短絡的議論が受け入れられるのでしょう。実際に、肌見せファッションを行っている女性にアンケートをとると、肌見せファッションを性的魅力のアピールの道具という動機では行っていないことが明らかになっています。
このような認識のギャップが、デモを産む要因となっているのかもしれません。
あまり脈略のないコメントですいません。