あえて公立高校を選んだ男の「高校野球へのアンチテーゼ」

2015/8/2

 「高校野球で連投をしない」と決断  

2015年夏の甲子園切符を懸けた戦いが終結し、次なる舞台は聖地・甲子園へと移される。地方大会では例年のごとく、熱戦あり、感動あり。高校野球人気の絶大さは朽ちる様子はみじんも感じられない。
一方で、変わらぬ風土、風潮があるのも事実だ。日程をメインにして開催される高校野球は、この夏もまた、連戦連投が当たり前のように行われ、30度を超す灼熱(しゃくねつ)の中、高校生たちは自らの身体に鞭を打ち、登板し続けていた。それは、およそこの100年、変わっていないと言えるかもしれない。
しかし、過去にはそこに、挑戦した男がいたことをお伝えしたい。高校野球の常識にTRYした男だ。現在、プロ野球の日本ハムに所属する立田将太選手である。今年入団したばかりのルーキーである立田は、過剰な投げ込みや連投を課す私学の強豪校への進学を拒否して、地元の公立校に進学。高校野球の感動とは距離を置き、その常識を覆そうとしたのである。
立田にとって、高校時代の挑戦はどのような意味を持つのか。今、日本ハムのファームにて、研鑽の日々を積む、彼のもとを訪れた。
千葉・鎌ケ谷の室内練習場ブルペンで投球を行う立田将太。
立田の高校入学までの経歴はすさまじい。奈良県に生まれた立田は、河合フレンズで野球を始めた。小学6年生の時、全国制覇を果たすなど、立田の存在は奈良県内で広く知れ渡っていた。巨人のルーキーで、同じく奈良県出身の岡本和真が「立田は小学生の時から知っています。ひとりだけ大きなピッチャーがいて、(力が)抜けていた」と話していたくらいだ。
中学は硬式野球のクラブチーム、JFK葛城ボーイズに入団。ここでも3年時に全国制覇を達成した。投手としては3点以上を取られたことがなかったというから、よほどの安定感があったと想像できる。しかし、将来を意識していた立田は、この時からあることに疑問を持ったのだった。
「プロ野球選手になるのがずっと目標だったんですけれど、中学生のときに、甲子園で活躍した選手がプロで怪我していると思ったんです。それが最初です。みんなは投げて当たり前と思っているんでしょうけれど、潰れてしまったら、何のために野球を続けてきたのかわからなくなります。僕は違うやり方にしないと、プロで一流にはなれないと考えるようになりました」
そうした考えは、高校進学の際に大きな問題となった。当時の所属チームを離れ、自分の足で高校を見つけることにした立田は、父の母校で自宅から近い、公立の大和広陵に進学したのだった。
「私学にいけば連投をさせられる。投げて当たり前というのは嫌なので、それをわかってほしい」。このうわさが広まるまでに、そう時間はかからなかった。小・中学生で全国制覇した投手が奈良に残り、地元の公立に進んだ──と。当然、よくないうわさも付いて回った。
「連投しない」  
「投げ込みをしない」  
「自分で練習メニューを決める」 
「父親がややこしい」
いつしか、立田はこう口にするようになっていた。「わかってもらえる人に理解してもらえれば、それでいい」

日本ハムが立田を評価した理由

実際、高校時代の立田は、公式戦ですら連投しなかった。衝撃を与えたのは高校2年の夏のことだ。その年のセンバツに出場していた立田率いる大和広陵は、春夏連続出場を狙える位置にいた。準々決勝では、甲子園常連の智弁学園と対戦。立田は先発マウンドに上がり、3失点を喫しながらも粘り、最後は9回サヨナラ勝ちした。そして、1日の休暇の後、準決勝・決勝の舞台へ向かった。
ここで立田は、準決勝の先発を回避した。連投を避けて決勝戦に万全を期すためだった。ところが、準決勝の桜井戦は思いのほか苦戦。結局、立田が試合終盤にマウンドに上がったものの、相手を止めることはできず、サヨナラ負け。夏の甲子園出場はならかった。連投を潜り抜けてこそエースという常識が彼にはなく、周囲から見れば、それがアダとなった敗戦だった。
また、高校3年の春季大会ではプロスカウトの評価も下げた。奈良県では、春季大会でベスト4に入ると夏の大会のシード権を得ることができる。大和広陵は、この大会でベスト4に進出しシード権を得た。それまでは良かったが、準決勝の相手が智弁学園だった。
プロのスカウトたちは、立田が智弁学園を相手にどういうピッチングをするのかを見たかった。ドラフト上位候補の岡本らがいる智弁学園を相手にする、立田の力量を測ったうえで、スカウティングリポートの材料にしたかったからだ。
しかし、立田は登板しなかった。夏に戦えるほかのピッチャーを経験させるため、自身は一塁の守備についた。もっともな選択なのだが、日ハムを除いた多くのスカウトは、その選択に納得がいかない様子だった。いや、スカウトの怒りは沸点に達したといっても良かった。
「高校のうちに投げてない投手は評価できない」
「プロでもどんどん投げる。高校で投げていない選手なんかいらない」
立田は、高校野球の一般的な風潮からかけ離れ過ぎていたのだ。たとえ、故障を抱えてでも、苦しみながらに投げることが高校野球では美談になる。チームのために投げるのが、エースなのだ。立田の姿勢は、到底受け入れられなかった。さらに、夏は準決勝で智弁学園に敗退。大量失点したこともあって、彼の評価は上がることはなかった。
だが立田は、その3年間を、一切後悔していないという。なぜなら、故障回避から始めたこの取り組みから新たなものを見つけたからだ。それは、選手としての「一本の軸」と立田は力説する。
立田将太(たつた・しょうた)
1996年生まれ、奈良県出身。県立大和広陵高校を卒業後、2014年にドラフト6位で日本ハムに入団。身長180cm、体重87kg。右投げ右打ち。
「プロに入れたことを考えると、まっすぐ突き進んで良かったのかなと思います。プロに入って思うのは、プロは自分で考えて練習する時間が多くあります。特に、ファイターズは全体練習が短くて、あとは自分でやるというかたちが多いチームです。そう考えたときに、高校で私立のように、監督さんから言われたことをただガムシャラにやっているだけだったら、自分で考える力はつかなかったと思います。公立だといろんな思いの選手がいるので、自分の心をしっかり持っていないと、環境に惑わされます。その中で、考えながら動き続けてきたので、自分の中に一本の軸ができた。それが、ものすごく役に立っています」
日本ハムが立田を評価したのも、彼が投げるボールの質はもちろん、何より、野球に対するその姿勢だった。日本ハムのスカウトディレクター・大渕隆氏は、立田指名の経緯をこう説明する。
「立田を評価したのは、担当スカウトだった芝草の推薦が普通ではなかったというのが1点。本音を言えば、取材も芝草にお願いしたいくらいなんですけれど、芝草は熱が入りすぎていたので、僕は冷静に見なくちゃなという中で立田を判断していきました。立田は2年春のセンバツで見たのが初めて。ゲームをつくるのが上手い投手という印象でしたね。ああいう(横に大きい)体型の投手は、投げるだけのイメージがするんですけれど、そういうタイプではなく、しっかりゲームをつくれた。そこは(全国制覇を達成した)中学までの実績が正しいなと思いました。最初はそんな印象だったのを覚えています。『ボールを投げない』、『投げ込みをしない』、『お父さんがややこしい…』という悪いうわさも聞きましたが」
大渕はそのセンバツ大会後も、立田を見に行っている。当然、担当の芝草に引っ張られたからだ。大渕が続ける。
「京都外大西との練習試合に行ったんです。先発していなかったので、ブルペンを覗きに行ったら、適当ではなくちゃんと取り組んでいた。準備からきっちりできる子なのかと。そして、練習を観に行っても、それは変わらなかったです。投げないって言われますけど、ずっと走っていましたからね。なかなか出来ないことですよ。この子はちゃんと自分の考えを持ってやる子なんだなと感じましたね。スカウトをしていても大事な要素だと感じていますが、監督に従順なだけの選手は、プロに入ってからは苦労します。言われたことしかできない子は、特にうちの育成環境では厳しい。立田には自分の考えというものがあったから、それが彼を評価するうえでのプラスアルファになりましたよね。大谷翔平もそういうタイプです」
つまり、大渕スカウトは「投げない」異端の立田に対して、誰よりも強い信念を持った選手と評価したのである。「時代が生んだ子だなと思いました。自分の身体を分かって、自分で自分を守る子。そんな選手が出てきたんだなぁ」と、好意的に捉えていたのだった。

高校野球で終わりたくなければ、もっと考えるべき

立田は高校2年春のセンバツ大会に出場している。1回戦で敗退したが、プロだけを見ていた立田にとって甲子園という舞台はどういう意味を持つものだったのだろうか。
「もちろん、甲子園に憧れはありましたよ。マウンドに立った時は、ここが昔からテレビで見ていた場所なんやって思いましたし、出場できなかった夏の大会も観に行きました。ああいう舞台で投げたかったなというのはあります。でも、何が何でもっていうのはなかったですね。高校に入った時は、プロに注目される意味でも、(甲子園に)出とかなあかんかなとは思っていましたけど、ピッチャーやし、そこまで気にせんでもええかなと。甲子園は行けたらいいくらいで、あくまで通過点という捉え方でした。ただ、あそこを夢見ることは悪いことではないと思います。高校野球で終わるんだったら……」
核心ともいえる言葉だった。
「高校野球で終わるんだったら……」
立田がこだわっていたのは、その観点なのである。彼の言葉をつなぐ。
「高校で終わりでいいんやったら、連投するやり方でもいいと思います。でも、それで終わらないと思っているならば、もっと先を見た方がいい。痛いのに投げる必要は全然ない。もっと、自分で考えるべきだと思います。それは練習の方法一つでも同じ。○○選手がやっているから自分もやると、練習方法を真似する人がいますけど、それも違うと思います。参考にするのはいいと思いますけど、そこだけ信じてやるのは良くないと思います。もっと、自分のことを考えて、本当に何が自分にあっているのか考えてほしいですね」
世間の当たり前が自分にとって当たり前なのかどうか。立田はそれを問うてきた。連投して本当にいいのか、高校野球のスターは潰れているじゃないか。その練習は本当にあっているのか。全員が一緒というはずはないんじゃないか。将来を見据える中で、立田が見つけ出そうとしていたのは、その1点だった。
大渕スカウトは、「立田のような例が、本当に成功すれば、少しは野球界もそういう風潮に変化が生まれるんじゃないか。いろんな人がそういうことに立ち向かっているけど、そのうちの一人だと思う」と言った。
もちろん、こういう企画をやる限りは、こちら側としても期待するのは、そういった視点だ。立田が野球界の概念・風潮を変える礎になってほしい。
そんな期待を振ると、立田は言葉を選びながら、決意を言葉に込めた。 
「今は言わんときます。何をいっても、まだプロで活躍してないやつの言葉だと言われたら、そこまでですからね。僕が高校で連投せず、自分のスタイルでやってきたのは、プロで活躍することが目的でした。だから、僕がプロで活躍できなければ、これまでやってきたことは間違っていたということになります。僕の負けです。現実、今、僕はファームにいますからね。1軍で長く活躍したら、その時に言いたいことをバンバン喋りたいと思います。高校の時はプロに入るのが夢でした。でも今は違います。僕は夢を目標に変え、新たに夢をつくって、そこを目指していくスタイルでやっています。今は一軍で活躍することを目標にしていますし、プロの一流選手になるという夢があります。球団やコーチからは『お前は自分の軸を持っているところが持ち味やから、それを大切にしろ』と言われているんで、自分の軸を大事にして、一生懸命にやりたいと思います。一軍で活躍して、一流になれたとき、言います」
高校野球界へのアンチテーゼ。高校3年間は、周囲からの批判の声を受けながら、それでも信じ突き進んできた。その末に、彼は、普通の公立校からプロ野球選手という夢を実現することができた。それだけでも一つのメッセージになり得るが、立田が見てきた先は、そのレベルではない。
「活躍した時に言います」
その言葉に、彼の決意はヒシヒシと感じることができる。立田の挑戦は高校野球を巣立った今も、続いている。
(取材・文:氏原英明、撮影:是枝右恭)